中国から届いた皆さんへのご挨拶、 聖なる別世界をお送りします。 何億年の積み重ね、 …
ヤスミン監督のまなざし
【映画『福岡』を観に】 毎年9月は福岡の街が一層「アジア」に染まります。 「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」 …
もうひとつの百済
「もうひとつの百済」。
来年の企画が1つできました。
百済へは何度も行きましたが、今回は全く違う視点から。
日本初、いやおそらく韓国でも初かもしれません。
百済は日本とゆかりが深く、武寧王や白村江の戦などはよくご存知でしょう。その百済の、三つの都や王宮ではなく、唐が攻めてくる戦の最前線の地をめぐります。
仁川空港に飛行機が降下を始めると、左側の眼下に複雑な海岸線やたくさんの島が広がります。忠清南道の最北エリア、公州から仁川に向かう途中のこの半島は、百済滅亡前の秘話や遺跡を多く残しています。
複雑な海岸線から上陸してくる場所。
海を経て唐(中国)と向きあった最前線だったから。
儒教や書の文化など、韓国らしい伝統文化が詰まった場所としても有名です。後年、「後百済」の復興運動の発火点にもなりました。
写真はそのエリアの「瑞山三尊磨崖仏」。
「百済の微笑み」とも呼ばれます。
百済後期の作で、韓国磨崖仏の傑作といわれます。
このエリア独特のお顔。こんなにも柔らかな表情の磨崖仏が集中しているのは、最前線の厳しさにいた人々の心が求めたものではないか。そんなことを想像しながら歩きます。
現地に立つのは、
年表の年号や遺跡の寸法を知るためではありません。
その時そこで生きた人たちを感じとるため。
そして、その地へのリスペクトを持ち帰るため。
「瑞山三尊磨崖仏」
600年頃、百済後期の作と推定。韓国の磨崖仏の傑作とされる

大きさは人物と比べて下さい。こんなに間近で拝めます

頭光に3体の化仏、見えますか?

山中の壮大な景色の中で微笑んでおられます

周りはこんな感じ。階段を5分ほど登るとたどりつきます

現地へおでかけの折は時間にご注意を

地方ならではの素朴な食事は本当に楽しみ!おから料理は純豆腐料理に似ていて滑らかな冷たいスープ状。かなり気に入りました。出遅れた!ので我がテーブルはスタートしており、少し食べかけの写真で失礼します。

麦ごはんと野菜が美味しい!

韓国の食の基本「五味五色」はきちんと。
赤・緑・黄・白・黒

台湾神宮にあった龍。なんと円山大飯店に
台北のランドマークでもある「円山大飯店」。
その山側エントランスのロビーに金の龍がいます。
金の龍はかつて、日本統治時代の台湾神宮に在りました。
あまり耳にすることのない話です。
高台でひときわ目を引く円山大飯店の赤い美しい姿は、ご覧になることが多いでしょう。剣鐸山の山裾、どこからも見え、どこまでも一望できるそこは、日本統治時代に台湾総鎮守の「台湾神宮」があった場所でもあるのです。
写真は現在の円山大飯店。
戦時下の供出や台湾神宮全焼の中で奇跡的に生き残った「銅龍」が、今は金を施された「金龍」となりホテル内に飾られています。
日本統治時代、台湾には184ヶ所の神社がありました。
(官幣社など国設置68ヶ所、社・祠など居留者設置116ヶ所)。
そして、日本敗戦後はすべて廃社されました。
台湾神宮の跡地には、まず台湾政府所管のホテルが建てられ、その後に経営権が円山大飯店に移り、今に至っています。
昭和天皇皇太子時代の台湾行啓の折には、大きくまっすぐな「勅使街道」が作られました。台湾神宮への参拝のためのその道は、町の中心部から高台へと続いていました。
今もその道が、台北中心部を南北に貫く大通り「中山北路」として、まっすぐにこの高台へ延びています。
ところで、
今の私の注目Best3は、
◎「中央研究院展示室」
◎「十三行遺跡」
◎「順益台灣原住民博物館」
本当に面白い。
国宝級遺物の数々。
鉄生産や海外交易でとても豊かだったのに、古代数世紀にわたりヒエラルキーを生まず平和に継続した集落遺跡。
観たこともない繊細で美しい土器や土偶など。
古代から近代、そして現在まで、
私たちと様々な関係を経てきた台湾。
近い台湾。もっと行ってもっと興味を持っていい。

円山大飯店ロビー(台湾・台北市)
国賓を迎える台湾の顔とも言えるホテル。

日本統治時代にこの山に存在した台湾神宮。跡地のホテルの中に、当時を生き抜いた銅龍が金を施された姿となり移設されています。山側客室棟のロビーにあります。
戦時下の供出や神社焼失の中を生き抜いた銅龍は、霊験あらたかと地元の人が大事に拝み続け、1987年に金が施され今の姿となりました。


世界中からのゲストがここを歩く場面はニュース等でよく目にします

豪華な内装にはドラゴンが多い

遠方からも見える姿は台北のランドマーク

館内にはホテルの歴史の展示コーナーも。激動の歴史を語る何枚もの写真。その1枚目が「かつて台湾の神社だった」というこのパネル。蒋介石夫人の宋美齢女史が、かつて神社があった剣鐸山のこの地を気に入っていたとのこと。歴史に名を残す多くの人が写真に登場して息をのむ

台湾神宮の絵図
*絵図の写真はパブリックドメイン(public domain)

韓国に神社の石段が残っていた
韓国を歩くと、知らなかったことに遭遇し驚くことばかりです。
歴史ツアーで宿泊したホテルの石段が、日本統治時代の神社の、数少ない痕跡だったとは!
敗戦の日の翌日、1945年8月16日、
京城(現ソウル)にあった朝鮮の総鎮守「朝鮮神宮」は日本人の手で昇神式にて御祭神は奉還されました。そして後日、すべて燃やして廃社されました。
今は何の痕跡も残っていません。
場所は明洞、今の南山公園。
ソウルタワーやケーブルカーでにぎわう観光スポットです。
日本が統治していた当時の朝鮮には官幣社や国弊社などが82ヶ所、居留者が設置した社・神祠を加えると全部で995ヶ所の神社がありました。
その神社の、数少ない痕跡のひとつが、
江原道春川の旧江原神社の跡。
石段が、現在の世宗ホテルの正面階段として残っています。
とは言え、石段を「モノ」として活用しているだけで、
宗教的な痕跡はまったくありません。
かたらんねツアーでは過去に2度、それとは知らず泊まっています。
世宗ホテルは、春川の中心部を少し外れた高台の、決して便利ではないけれど眺めのいい場所にあります。江原神社の話を知っていれば違う見方、感じ方があったかもしれません。
明日は台北の台湾神宮のお話を。
あっと驚くような場所に、今も痕跡を残しています。
*数字は下記から引用させて頂きました
中島三千男氏『海外神社跡地の景観変容 さまざまな現在』
川瀬貴也氏 京都大学人文学研究所『人文学報』108号
春川世宗ホテル(韓国・江原道春川)

市内中心部はずれの高台にあり静かな環境

正面の階段は日本が占領していた時代の旧・江原神社の痕跡

政財界の方々も集うホテル

韓国の歴代大統領もここへ

「京城名所 朝鮮神宮」とある。これは占領期の絵はがき。
現在のソウル中心部、明洞にあった。
*絵はがきの写真はパブリックドメイン(public domain)

春川の町を望む。澄み切った青空、からりとさわやかな空気、美しい街。国立春川博物館の高台より

春川と言えば、「冬のソナタ」のヨン様。雪のオブジェがあふれる冬ソナストリートもあるけれど・・・

片手にマグライト、片手に方位磁石で、

高句麗遺跡を訪ねる我々のような人々もいますよ。


一酌散千愁
見事な満開の桜が街を覆った数日後、
花吹雪の中を、大好きな先輩が逝ってしまった。
病気だなんて知らなかった。
いつだってあの笑顔に会えるなど、
なんの約束でもない思い込みなのだと、
当たり前のことに呆然とする。
葬送の式で伺ったお話に、
改めて先輩に会えたような気がしている。
「願わくは花の下にて春死なむ
その如月の望月の頃」
自宅を建てたときに庭に桜の木を植えた。
桜を植えたかった先輩は、
庭に桜なんてあまり植えないんだけどね、
といいながら西行法師のこの歌を口にしたそうだ。
そして本当に如月望月の2日後、桜の下で旅立った。
はっと思い出したことがある。
「一酌散千愁」
酒蔵開きにおじゃましたときのことだ。
飲み比べを楽しんでいる私たちに、
これ飲んでみて、と注いでくれたお酒。
「わあ、美味しい~!」
嬉しそうに満面の笑みを返す先輩に
「これはどのお酒ですか?」と尋ねると、
ひと言ずつゆっくりと、
「いち しゃく さん せん しゅう」。
「い… しゅう… え?」
わからないと顔に書いてあるのを笑いながら、
「杜甫の詩の一節でね、漢字でこう書くの。
一、酌、散、千、愁。
お酒を酌み交わせばいやなことも全部きえていく、
っていう意味なんだ。」
「僕はね、杜甫が大好きでね。
この古酒は、杜甫の詩から名前をいただいたの」
素敵なネーミングだなあ、
春のうららかな田園風景の中で酌み交わすなんて、
先輩らしいなあ、と、
教養人の先輩をさらにまぶしく見上げたものだ。
でも、そのことは記憶の奥にしまったままだった。
お別れの式で、皆さんが語る想い出から、
文化や伝統を体現する酒蔵として、
心を砕き汗をかき、
さまざまな行動をしていらしたと、
初めて知ることが多かった。
たくさんの点が、つながった気がする。
やさしいやさしい方だった。
笑顔しか見たことないと誰もが言っていた。
いつも、柔らかな笑顔で、
いつも、ゆったりした語り口で、
いつも、大丈夫大丈夫と肩をたたいてくれた。
その裏で
強靭な精神が支えていたのですね。
長い闘病を人に知らせなかったこと、
まったく入院せずに通院でたたかい続けたこと、
通院しながら仕事も休まなかったこと、
必ず治ると信じていたこと、
激痛にも弱音をはかなかったこと。
何がその強さを支えていたのだろう。
お酒をのみながら幸せな時間を過ごしてほしい、
満開の花の中で、
のどかな田園で、
うれしいとき、つらいとき、かなしいとき。
お酒とともに、
大丈夫だよという笑顔とともに、
私たちを励ましてくれていた。
文化や伝統行事を、
一所懸命に伝えようとしたのも、
きっと、それが私たちを支えると信じていたから。
そしてそのことが、
ご自身をも支えていたのだろうか。
やさしいだけでは
やさしくなれないのかもしれない。
強くなければ。
志がなければ。
行動がなければ。
お別れの式は、
旅立つ前に大事なことを教えようとしてくれた、
そんな時間だったように思われてならない。
花を手向けたそのお顔は、
微笑んでいるようにみえた。
死後にお顔がふっくらしてきたせい?
いえ、そんなことなど超越して、
「先輩、最後まで笑ってたよね」、
「笑ってさよならしていたね」、
と私たちに言わせてくれる、
その生き方に心からの敬意を表します。
いや、先輩は、
きっと本当に笑ってたんだ。
もうすぐあちらの世界で、
桜の下でお酒を酌んで、
千の愁いを散らすんだ。
合掌






