別府湾を一望

温泉地「別府」。血の池地獄や坊主地獄などユニークな地獄が数多く、眼下の別府湾のあちら側には猿山・高崎山が、こちら側には六郷満山・国東半島が見える観光地です。

でも、この別府湾沿岸は大型古墳が集中するエリアでもあり、それがあまり知られていないのがとても残念。

地図をご覧になってみてください。地勢からみて面白くないわけがない。古代の歴史の宝庫です。

古代の営みを見るときに、大事なのは川。
ここでは阿蘇から悠々と流れきて別府湾へ注ぐ、大野川が歴史を育みました。

ところで、

九州島の、大分と反対の西側は有明海に面します。大河・筑後川が有明海に注ぐ出口に、家具で有名な大川という町がありますが、その辺りを車で走っていると標識に「竹田」と出てきて驚くことがあります。

遠すぎるし、なぜここで、あの山の奥の竹田?

現代の道や行政区画に慣れているとピンときませんが、竹田は阿蘇山の麓、九州のへそに位置し、古代から交通の結節点でした。

有明海から阿蘇→竹田、そして竹田から大野川に沿って別府湾へと至ります。そこから海路で瀬戸内を経て近畿へ。

古代の幹線だったと理解できますね。標識の「→竹田」は名残でもあり、今も生きているルートなのです。

この重要なルート上には、筑紫君磐井が豊後へ落ち延びた話、景行天皇巡行の行宮、風土記の「鼠」たち(抵抗した在地豪族)などなど、古代の多くの伝承が残っています。各地で女性首長が一族を率いて活躍するのもこのエリア。

別府湾の前方後円墳は、海人たちを思わせる出土品ばかり。
ヤマトに必要とされた、海と生きている地元豪族の姿が想像されます。

古墳の時代変遷をみると、国東半島の南の別府湾から、北の周防灘沿岸に移っていくのも興味深い。ヤマトは、朝鮮半島との往来のために、より北に、海人の拠点が必要になったのでしょうか。

別府湾エリアの、亀塚古墳、築山古墳、臼塚古墳、それと意味深でユニークな古宮古墳を1本ずつ書いてゆきます。

 

【写真コーナー】——————–

大分高速道の別府湾SAからの景色。左は国東半島。右手に目的の古墳があるエリアが続き、湾の向こうにはすぐそこに四国。パノラママップと照らしてみて下さい。
別府湾を一望

別府湾パノラママップ

 

 

ヤマトから瀬戸内の主要大型古墳。瀬戸内の出入り口として国東半島の南の別府湾、北の行橋・苅田の位置的重要性がわかる。
(海部古墳資料館の展示より)
瀬戸内海の主要大型古墳分布図 パネル

 

別府湾エリアの主要古墳
海部の主要古墳 パネル

 

亀塚古墳。大分県最大の前方後円墳。葺石に白い石英質の石が用いられ、海から見たときに、白い堂々たる姿が光り輝いたはず
亀塚古墳 解説パネル

 

築山古墳。亀塚に注ぐ大きさ。女性首長の墓。石棺の中には朱が多量に!
築山古墳 解説パネル

 

臼塚古墳。海人を示す耳骨腫の頭骨が出たのもここ。石人は八女の石人石馬との関係が気になる。有名な臼杵磨崖仏の近く
臼塚古墳 解説パネル

 

3段の上から順に、福岡東部~宇佐エリア、国東~別府湾エリア、下は他のエリアの大型古墳(宮崎の生目・西都原、八女の岩戸山など)。
1番上の段で苅田の石塚山が最初に現れたあと、2番目の段の宇佐から別府湾に集中して築かれ、その後それが北部(1番上の段)へ移っていったのがわかる
東九州の古墳の移りかわり パネル

 

宇佐、国東、別府湾から大野川流域。大型古墳が終焉を迎えたのち、最後の時期に築かれた古宮古墳は注目すべき古墳。これもご紹介します
豊後地方の古墳の移りかわり

 

大型の前方後円墳、亀塚、築山、臼塚をご紹介します

 

最後の時期、古宮古墳は、ヤマトとのつながりを語る。九州唯一の刳り抜き型の石棺式石室
古宮古墳の築造時期 解説パネル

 

亀塚古墳
別府湾を代表する大型前方後円墳「亀塚古墳」

 

亀塚古墳の船が書かれた埴輪
亀塚古墳 船形埴輪

 

亀塚古墳のスイジガイ文様の埴輪
亀塚古墳 スイジガイ文様

 

築山古墳
築山古墳

 

築山古墳。石棺には女性
築山古墳パンフレット

 

築山古墳。石棺には3体の人骨
築山古墳 南石棺内部の発掘見取り図

 

岬の突端、早吸日女(はやすひめ)神社。今も海人の神
早吸日女神社

 

竜宮城や、
早吸日女神社の屋根瓦に竜宮城

 

浦島太郎も。
早吸日女神社の屋根瓦に浦島太郎

 

臼塚古墳の石棺
臼塚古墳の石棺

 

臼塚古墳の鎧をつけた石人
臼塚古墳の石人2体

 

古宮古墳の案内板
古宮古墳の解説

 

古宮古墳。刳り貫き型の石棺式石室。
これら古墳を、一ヶ所ずつご紹介してゆきます
刳り抜き型の石棺式石室の様子(古宮古墳)

 

 

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