ツアーでいつも、志賀島から博多湾一帯と福岡平野の最奥の防衛線「水城」を遠望いただきますが、今日は反対側から。
百道浜の福岡タワーからの眺めです。
志賀島を拠点にした阿曇族が荒波を越えていく風景、
遣唐使船が出て行った風景、
大挙して押し寄せる元寇の船に湾が埋め尽くされた風景、
先の終戦後には引き揚げの人々が故郷へ上陸した風景。
海を見ていると話も想いも尽きません。
【写真コーナー】————–
眼下の博多湾、右手(東)に浜が続き、最奥のあたりからぐるりと西へ向かって「海の中道」が伸びてゆきます。その左先には志賀島が。
海の中道の真ん中あたりの向こうに、わずかですが島影が盛り上がっているのが見えますでしょうか。台形の平たく崖がストンと落ちている島、これが相島、積石塚のある島です。
その向こう側が、宗像大社の中津宮・沖津宮のある大島・沖ノ島、ムナカタ族の海。志賀島を拠点に、相島あたりからこちら側が、阿曇族の海です。
視線を少し左へ動かすと、海の中道の突端、福岡タワーから見ると北の方角に、志賀島、左の大きな島は能古島です。
作家・壇一雄氏が終の棲家とされた島、
井上陽水さんのあの名曲で砂がサラサラ泣いた島です。
博多湾が外海から守られた良港とわかります。
この海岸線に、元寇の時にはぐるりと石築地(防塁)を築きましたが、防塁からはずれた志賀島に蒙古軍が上陸して凄惨な戦いがありました。
西の方角は糸島半島。伊都国のエリアです。西の先に糸島半島の可也山が見えます。美しい姿は糸島富士と呼ばれます。左手(南の方角)には福岡平野が広がります。
糸島半島に陽が沈みます。
可也山に沈む夕陽。糸島富士のシルエット。
江戸時代、福岡城を出て唐津街道を一里きたこのあたり(今の地下鉄藤崎あたり)で糸島富士が見え、行く先に見えたぞ、富士が見えたぞ、さきにふじ、ふじさき。というどこかで耳にした話もあります。(謎)
でも、今も藤崎には道行きの神、猿田彦神社があり、地元の崇敬篤く、福岡の住まいの玄関には、戸建てでもマンションでも、小さな猿のお面の焼物がかけてあるのをよく見かけます。大みそかから新年、猿田彦神社には大勢がつめかけます。一年の願をかけ猿を新しいものに取り換えます。こういう「ならわし」は良いものだなあ、と温かくなります。