博物館の階段に心を射られた後、キャンパスを歩いていたら、 「カフェがオープン」の看板が。 それは要チェック! …
ヤスミン監督のまなざし
【映画『福岡』を観に】 毎年9月は福岡の街が一層「アジア」に染まります。 「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」 …
波打つ階段。西南学院大学博物館 -Seinan Gakuin University Museum-
素敵なキャンパスに誘われて、そうだ久しぶりに博物館に入ろうと思い立ちました。
美しい赤レンガ館。歩くといつも、ペギー葉山さんのあの歌が頭で響き始めます。
一歩入ると、磨きこまれた木の柔らかな雰囲気と、刻まれた時間と、ここで過ごした学生たちの大切なものが混じりあったような、外界と違うしんとした空気に包まれます。
何度も来ているこの館で、今日、急に魅かれたことがあります。
それは・・・
「波打つ階段」。
100年間、学生たちが歩き、座り、触り、笑いあった跡が、しっかりと残されているという驚き。
いいえ、
残っているのでなく、
残したのだと、
思いました。
建物が黙しつつ饒舌に語ることがある。
修復の際に意志を持ってそれを残すことがある。
そういうことかもしれない、などと。
2015年に100周年を迎えた学院の、数年年下のこの建物は、アメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリーズにより1921(大正10)年に完成しました。
16年前まで高校の現役の学び舎として活躍していたここは、学校が百道浜の新校舎へ移転した折に、キリスト教をテーマとした博物館となり一般にも公開されています。
建物に包まれて、建物と会話して、ありがとうという幸せな気持ちに満たされました。
<展示について。「魔鏡」はぜひ!>—————–
必見は「魔鏡」(江戸時代)です。
これを観るだけでも足を運んで良かったと思えるはず。
魔鏡とは、鏡の背面に目で見えないぐらいのわずかな凹凸を刻むことで光の乱反射が起こり、白壁などに像が映し出されるしくみです。ところが!ここに展示されている鏡は、背面を目で見たときの文様とは全く違う絵柄が壁に映し出されるという驚きの作品です。
展示の前に立ち、スイッチを入れて光があたると、
・・・壁にキリストが現れます!
禁教下での信仰が生んだもの。解説には「非常に高い技術に裏付けられた魔鏡中の傑作」とあります。
■西南学院大学博物館は 公式HP
■W.M.ヴォーリス氏は(株)一粒社ヴォーリズ建築事務所
建築群や宣教師からメンソレータムまで!
【写真コーナー】——————–
西南学院大学博物館(ドージャー記念館)。 福岡県指定有形文化財(2015) 福岡市都市景観賞を受賞(2000)
赤レンガ風で統一されたキャンパス。抜けるような青空と素晴らしくマッチ。
このチャペルで16年前まで祈りがささげられていました。
建物はもうすぐ100才
外壁と主な内壁はレンガ造り、屋根は木造トラス、床は木造。ジョージアンコロニアルスタイルを基調とする建物そのものが、見応えある展示物です
1階が展示室、2階と3階が吹き抜けの講堂。この講堂は校舎移転まではチャペルでした
キリスト教関係の資料が展示されています。室内展示品は撮影できません
廊下のレプリカは、 ルーブル美術館蔵の「メシャ碑文」
階段をあがり建物見学へ
ギシギシとわずかに鳴る足元の床も、光までも、柔らかく緊張を解くような
2階ホールには当時の設計図。設計者は宣教師・建築家のW.M.ヴォーリス。
手書きのサイン。
AUDITORIUM&ADMINISTRATION BUILDING FOR FUKUOKA MIDDLE SCHOOL KYUSHU
1921(大正10)年から、ついこの前の2003(平成15)年まで、高校生が毎日を過ごしていたのです
修復にあたっては、建築当時の写真や資料を徹底的に調べ、照明に至るまで同様に復元したそう
柱も、窓も、
磨きこまれた長椅子も、変わらずそこにある。
最前列から入り口方向を。
吹き抜けの3階から。入学式も卒業式も、お祈りもここで。
今回、急に魅せられたのは、
ほぼすべてが「そのまま」ということ。ただ、木の床だから優しい印象だったのでなく、
よくよく見ると、学生たちが踏みしめた部分がすり減っている。真ん中は歩かないんですね。左右2列に柔らかくへこんで波打っている。
こんなにカーブを描くんだ!
式典や会合やミサ、学生たちだけでない多くの人を思うと、100年でどれだけの歩を受けたのだろうか。
椅子もそのまま。きれいに修復はされたのでしょうが、
何万回と座った跡がみえるようです。
たくさんの学生がつかんだ跡も、
座れば、その時の景色がそのまま、当人なら友人の声やざわめきまで聞こえるのかも。
たまに帰ることができるこういう場のおかげで、誇りを思い出し、感謝を思い出し、よしもう一度頑張ろうと背中を押してもらえるのだろう。いつもは忘れられている位が、ちょうどいい距離なのかもしれない。
「入鹿、生けりせば」ー『謎の豪族 蘇我氏』の強烈な一節 -Asuka-
連休に本を読んで籠っている幸せ。
このGW、強烈に刺さった一節です。
「入鹿、生けりせば」
水谷千秋氏『謎の豪族 蘇我氏』の小見出しです。
蘇我入鹿といえば、あの絵。
『漫画・日本の歴史』の、その瞬間の絵。
ヒーロー中大兄皇子が、悪党入鹿を殺すシーンです。あの頃は、どの家にも学校の図書室にも『日本の歴史』がありました。あの絵が記憶の底に刷り込まれているのは私だけではないでしょう。
宮殿で公式行事の最中に、
天皇の目前で惨殺された蘇我入鹿。
その乙巳の変を皮切りに、勝者・中大兄皇子(天智天皇)たちにより大化の改新がなされ、白村江の戦を経て、青丹よし奈良の都の華やかさに続いていきます。
大仕事を成した中大兄皇子は、のちに天智天皇になってから、激動の白村江の時代を生きた母・斉明天皇の菩提を弔うために、観世音寺を建立しました。
白村江遠征の間際に斉明天皇が崩御した九州の、大宰府に。今その大宰府一帯は「令和」フィーバーの中にあります。
(ちなみに斉明天皇が滞在し崩御した宮は諸説あり未だ確定されず。九州考古学の最大の謎ともいわれる興味深いテーマです)
・・・・・
これが、当たり前に聞いてきたストーリー。
ステレオタイプのヒーローと悪党の理解。
でも・・・、
入鹿とはどういう人物だったのか、
思えばほとんど知りませんでした。
蘇我一族があまりに強大に過ぎたかもしれない。
若気の至りで反感を買う所業もあったかもしれない。
でも、
才知にあふれ、
激動の東アジア情勢を熟知し、
国際感覚を持ち、
「国家の計を成さむや」と考えていた、
入鹿。
その頭の中にはどんな「国家の計」、
どんな世界が描かれていたのか。
その頃は危険を感じてか肌身離さず持っていた剣を、宮中に入る前に芸人の話芸に笑いながら預けるという致命的なふるまいも(これもだまし討ちの一環)。水谷氏が記すように「英雄の豪胆さを」感じてしまいます。
歴史とは勝者が書くものと
つくづく思います。
歴史に「もしも」は無いけれど、
読者としても想像せずにはおれませんでした。
「入鹿、生けりせば」
『古代豪族と大王の謎』『謎の豪族 蘇我氏』(いずれも水谷千秋氏)と続けて読み、豪族に浸ったひと月。また違う人間ドラマが見えてきました。
蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿に会いに、
飛鳥をゆっくり歩きに行こう。
同じ景色が、今までとは違って見えてくる気がします。
あと、秦氏の親分にもすごく会いたくなっています。
*写真は「伝飛鳥板蓋宮跡」
入鹿が惨殺されたのは、すべての入り口をふさがれたこの宮殿の中。その日は豪雨で、雨の中へ投げ捨てられた入鹿の遺体は、むしろをかぶせられたという
空から大宰府政庁 令和初日に Dazaifu
新しい時代となりました。
私たちがいつも本で読み、
講座で学ぶことが、
目の前で繰り広げられています。
今もこの場所も私たちも、
1000年、2000年の後には、
同じように過去の歴史となっていきます。
いつも触れている歴史も、
単なる文字やモノでなく、
遠い過去の時間の中で生きた「人」だということ。
血が通い、
喜怒哀楽があり、
世の理不尽や無常、
そして希望の積み重ねであったということ。
当たり前のことに思いが至ります。
豆粒のようなこの毎日を、
せめて明るく一所懸命、
いい時代だったねと
バトンタッチできるように過ごしたい。
*
「令和」で話題の大宰府政庁を空からどうぞ。
(写真は昨年)
古代山城の大野城の右の麓に「大宰府政庁」、
政庁左奥に隣接するのが”令和”で話題の「坂本八幡宮」、
右には「学校院跡」や天智天皇(中大兄皇子)が母の斉明天皇を弔うために建てた「観世音寺」、
少し離れた右奥の青い屋根が「九州国立博物館」、
その手前の森が菅原道真公を祀る「太宰府天満宮」です。
白村江の敗戦後には、
この古代山城で、
遠く博多湾を見張り、
今日なのか明日なのかと
唐の大軍が攻めてくることにおびえ、
緊迫した長い長い時間を送った時もあったとは。
歴史に惹かれるのはそこに「人」があるから。
場所を越えて、今この時の横軸へ。
時間を越えて、今この場の縦軸へ。
縦横無尽にもっともっと「人」に会いに行く。
では良い一日、良い時代を!
志賀島から可也山まで。博多湾を一望しながら話も想いも尽きません -Shikanoshima Iland,Kaya-mountain-
ツアーでいつも、志賀島から博多湾一帯と福岡平野の最奥の防衛線「水城」を遠望いただきますが、今日は反対側から。
百道浜の福岡タワーからの眺めです。
志賀島を拠点にした阿曇族が荒波を越えていく風景、
遣唐使船が出て行った風景、
大挙して押し寄せる元寇の船に湾が埋め尽くされた風景、
先の終戦後には引き揚げの人々が故郷へ上陸した風景。
海を見ていると話も想いも尽きません。
【写真コーナー】————–
眼下の博多湾、右手(東)に浜が続き、最奥のあたりからぐるりと西へ向かって「海の中道」が伸びてゆきます。その左先には志賀島が。
海の中道の真ん中あたりの向こうに、わずかですが島影が盛り上がっているのが見えますでしょうか。台形の平たく崖がストンと落ちている島、これが相島、積石塚のある島です。
その向こう側が、宗像大社の中津宮・沖津宮のある大島・沖ノ島、ムナカタ族の海。志賀島を拠点に、相島あたりからこちら側が、阿曇族の海です。
視線を少し左へ動かすと、海の中道の突端、福岡タワーから見ると北の方角に、志賀島、左の大きな島は能古島です。
作家・壇一雄氏が終の棲家とされた島、
井上陽水さんのあの名曲で砂がサラサラ泣いた島です。
博多湾が外海から守られた良港とわかります。
この海岸線に、元寇の時にはぐるりと石築地(防塁)を築きましたが、防塁からはずれた志賀島に蒙古軍が上陸して凄惨な戦いがありました。
西の方角は糸島半島。伊都国のエリアです。西の先に糸島半島の可也山が見えます。美しい姿は糸島富士と呼ばれます。左手(南の方角)には福岡平野が広がります。
糸島半島に陽が沈みます。
可也山に沈む夕陽。糸島富士のシルエット。
江戸時代、福岡城を出て唐津街道を一里きたこのあたり(今の地下鉄藤崎あたり)で糸島富士が見え、行く先に見えたぞ、富士が見えたぞ、さきにふじ、ふじさき。というどこかで耳にした話もあります。(謎)
でも、今も藤崎には道行きの神、猿田彦神社があり、地元の崇敬篤く、福岡の住まいの玄関には、戸建てでもマンションでも、小さな猿のお面の焼物がかけてあるのをよく見かけます。大みそかから新年、猿田彦神社には大勢がつめかけます。一年の願をかけ猿を新しいものに取り換えます。こういう「ならわし」は良いものだなあ、と温かくなります。
古宮古墳 ―九州唯一、巨岩を刳りぬいた石棺式石室―
別府湾沿岸の古墳をみていると、不思議なことがあります。
それは、古宮古墳。
これは一体、何なのでしょう?
別府湾沿岸では、
4~5世紀に、
大型前方後円墳が集中して築かれたのは、わかりました。
6世紀には、
ぱったりと全盛期を終え、もっと北の京都(みやこ)平野、(今の苅田~行橋)へ中心が移ったこともわかりました。
西暦600年前後に、
別府湾の古墳年表が空白になってから100年をおいて、いくつかの装飾古墳が築かれたのは在地の歴史をあらわしています。
そして、
さらに時を経て7世紀の半ばに、
最後の古墳として「古宮古墳」がポツリと築かれるのです。
しかも、九州で唯一の、刳り抜き式の石棺型石室。
一体なぜ、突然に?
一体なぜ、刳り抜き式という珍しくかつ贅をこらしたものが?
一体、この墓の主は誰なのでしょう?
海部古墳資料館の展示解説によれば、
「大化2(646)年の薄葬令により、死者の身分に応じた墓制が定められました。前方後円墳は姿を消し、小型の方墳や円墳に石棺式石室や漆塗木棺、高松塚古墳に代表される絵画装飾など美しく整えられた古墳に変わっていきました。」
大化の改新の一環で大規模古墳は姿を消し、墓制には厳格なルールが導入されました。
別府湾沿岸の高台に残る古宮古墳の築造は、この時期にあたります。
同時期の例としてあがるものは、なんとも煌びやか!
天武・持統陵石室、
高松塚古墳、
牽牛子塚古墳など。
高松塚の美人画や、牽牛子塚古墳の“八角形”などが、高句麗との繋がりをも連想させます。古宮古墳も、そんな流れの中にあるのでしょうか。
古宮古墳は、薄葬令によると「上臣(大臣)クラス」相当の方墳です。
大分のこの地で、その被葬者は…? となると、
死後に天武天皇から外小紫(とのしょうし)の位を送られた、
「大分君恵尺(えさか)」、
であろうと言われています。
壬申の乱で大活躍した人物として、
大分君恵尺(えさか)と稚臣(わかみ)が、日本書紀の天武紀に記されています。
また、現地に立つとよくわかるのですが、
この古墳は、なんと「風水思想」にも合致しているのです。
これも当時、朝鮮半島経由で伝わってきたもの。
当時の都で、高松塚やキトラや牽牛子塚に大陸文化の薫りが込められた、その同じ時代に、
位の高い主を葬るために作られた古宮古墳も、同じように大陸文化を体現しているものだとしたら…。
そんな目でこの高台に立ち、
恵尺の人生を想像すると、
身近な人としての息吹が立ち上るようです。
大分から出てゆき、都で活躍し、
歴史の大舞台に立ち、
大陸文化に触れて高揚し、
その薫りをまとい・・・。
そして最期に眠る場所は、故郷の大分なのだなあ、と。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
*石室の写真は大分市教育委員会に取材許可を得て撮影、掲載しています。転載はご遠慮ください
*古墳現地は入り口に格子の扉があり通常は中へは入れませんが、格子を通して奥の様子を見ることができます
巨大な岩を刳りぬいた石棺型石室
石室の内部
石室入り口部分、何重にも重層的に刻まれ飾られている
岩のアップ
日暮れだった為ライトで照らしつつ
一帯は整備された公園。高台にあり急な階段を登る
石室からの眺め。風水に基づく立地を体感します
現地の案内板
現地の写真(大分市観光協会より)。石室入り口の格子扉を通して内部を観れる
4・5世紀に別府湾沿岸に、6世紀に北部の京都平野に、集中しているのがわかる。年代的にはちょうど磐井の乱が境。そこの興味は機を改めて。
(以下、海部古墳資料館の展示パネル)
別府湾沿岸で、突如一番最後に「古宮古墳」が現れる
終末期の古墳と大分君
その当時の石室。高松塚、牽牛子塚など重要な古墳ばかり。
美人画、天文、四神、八角形など気になることばかりの時代
大化2年の薄葬令の厳格なルールと、古宮古墳にみえる風水思想
古宮古墳の場所。別府湾沿岸は瀬戸内への入り口として重要な場所
臼塚古墳―海人の耳― Usuzuka-Old tomb,Usuki-City
何に驚いたかって、耳の穴が小さくなった頭蓋骨です。
耳の入り口の軟骨が盛り上がり、丸いはずの耳の穴が扁平になっています。潜水を繰り返す海族たちは、水から自分を守るために体がこう変わる、海人にはよくあるということです。
体が変化するほどのプロのすごさに感嘆。
そして、プレイングマネージャーであることに、感嘆!
臼塚古墳の立派な石棺に葬られたこの地の首長といえども、耳の軟骨の形が変わるほど海にもぐっていたということ。一方では、将来は王になることが約束され、幼いころから腕を動かせないほどたくさんの貝輪(威信財)をはめ、おそらく掃除洗濯、狩りなどすることもなかった首長が眠る古墳も、他の土地にはあるでしょう。
臼塚古墳の2つの石棺には、それぞれに2体が眠り、すべてが外耳道骨腫をもっていました。海部の海人族たちは、一人残らず当たり前に、潜り、櫓をこぎ、嵐の海と向き合い、大海原をかけたのだろうと、その姿が浮かび上がってくるようです。
そして、副葬品のすごさ!
「位至三公鏡」「獣帯鏡」の中国製の二面の鏡。
勾玉・鉄剣・鉄刀・貝輪など。
海部地域で大きな力を誇っていたのがわかります。
さらに、
「短甲型石人」は必見です。
鎧を身に着け、真っ赤に朱で彩色された石人が2体、古墳の主を悪霊から守っていました。今は石人は神社の参道の入り口に移されていますが、当時は前方後円墳のくびれ部に並んで立っていました。参道でひっそりとたたずんでいる石人は、近づいて当時のままの姿を見ることができます。脇や足元に朱が残っています。この2人は、あれから1500年ほどの長い間、ずっと主人を守っているのだろうな。お疲れ様です、と頭をたれて離れました。
臼塚古墳は現在、臼杵神社の境内となっており、石人は鳥居をくぐったすぐ横に、石棺は後円部の端のほうに、位置を変えて残っています。
お社まで登ると、この古墳が高台にあり、一族が治めていた地域どこからでも堂々とした姿を眺められるように築かれているのがわかります。
海部古墳資料館で、頭蓋骨や鏡などのレプリカ展示を観ることができます。
が、神社に飾られている発掘当時の本物の写真の生々しさがすごかった。現地で景色を見ながら体感できることは、やはり迫力がちがいます。
昭和54年に、当時の皇太子殿下が見学においでになられたパネルが飾ってありました。水運のご研究にとって、この海部の海人族は興味深いものだったのでしょうか。
ここ海部から阿蘇へ向けての豊後大野一帯は、後の時代には磨崖仏も多くあります。有名な臼杵の摩崖仏だけではないのです。小さく味のある山椒の小粒のようなぴりりと味わい深い石仏摩崖仏が本当に多い。また、豊後はクリスチャン大名の地でもあり、大野川の上流の竹田では、全国に類を見ない“隠しキリシタン”の歴史もあります。「隠れ」ではなく「隠し」キリシタン。豊後は深くて面白いところです。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
丸かった耳の穴が扁平になるほど、骨が盛り上がっている頭蓋骨。海人の集団、臼塚古墳の特徴のひとつ。
海部古墳資料館の展示(レプリカ)
頭蓋骨はここに眠っていた。舟形石棺2基にそれぞれ2体が。
臼杵神社の境内に、臼塚古墳はある。
鳥居をくぐると、
すぐ右手に、石人2体の覆いや。元は古墳の上にあったもの
お社へ。前方後円墳を横から、くびれ部あたりを登る形。
全長87m、後円部45mの前方後円墳
後円部の中央に建つ社殿の裏にまわると、
石棺がここに移されている。
舟形石棺2基
縄掛け突起も大きい。側面にも、それぞれ、4ヶ所と3ヶ所
裏手から見る
くびれ部から前方部を観る
遠く山並みも望む高台、絶好の立地とわかる
後円部の向こうには田園風景が広がる。
古墳の下、入り口の鳥居の横
短甲型石人が2体。もとは古墳の上、くびれ部のあたりで主を守っていた。赤く見えるのは朱の残り?
海部古墳資料館の展示
上の2点が臼塚古墳出土。
海部古墳資料館の展示
臼塚古墳の埴輪にも短甲型。すそ部分
社殿に展示された発掘時の写真。迫力あり!
昭和54年、皇太子時代の天皇陛下がご見学に
帰りに見ると、臼杵神社の入り口に
この古墳から大野川をさかのぼるとこんな風景が続く。川をさかのぼると竹田から阿蘇へと続く。風土記の土蜘蛛たちが活躍していた豊かなこの場所は、滝や洞窟が多く、ジオパークにも認定されている本当に美しい土地。磨崖仏も多い。大小いろいろ、あちこちにある。
その地その地にひっそり立ち、今も地元の方が大切に守り守られ、暮らしに溶け込んでいる石仏が、とてもいいお顔と風情で、「また会いに来ます」と言葉が出るのです。
早吸日女(はやすひめ)神社―海人の守り神― Hayasuhime-Shrine, Oita-City
亀塚古墳、築山古墳からさらに岬へ向かうと、佐賀関という漁師町があります。
あの全国に名を馳せる、関あじ・関さばの漁の基地。目の前の豊後水道は、潮の流れが速く複雑で、そこで身をもまれた魚が、本当に美味しいのです!
この佐賀関に、古くより地元の信仰篤い早吸日女(はやすひめ)神社があります。
亀塚古墳、築山古墳に眠る海人族から、脈々と今に続く、海に生きる土地の氏神様は、小さな町なのにあまりに立派な神社で驚きます。
この名前、「早吸日女」は、
風土記にでてくる「速来津媛」からきているのでは?
「速来津媛」だとすれば、風土記の土蜘蛛(中央への抵抗勢力)のうちのひとつで、一族を守るための策をとったと思われます。この地を率いた女性首長は、悩み苦しみ、政治的決断を下したのだろうと、少しせつない思いにとらわれてしまいます。
神社御由緒には、「海」「海女」「女性」というキーワードが。
神話時代の、神武天皇東遷の折の逸話が由来とされています。
東遷の途中ここへ立ち寄られた折、黒砂(いさご)・真砂(まさご)の海女二神が海の底にもぐり、大蛸が守護する神剣をとりあげて奉献、神武天皇がその剣を当地に祀ったのが神社の始まりと。
その剣が、この早吸日女神社のご神体となっています。
今も地元の方は「蛸断ち祈願」で願をかけ、蛸の絵を奉納します。
ご神体の剣を大蛸が守っていたことからきている風習だそうです。
絵馬にも「大蛸」、拝殿の中には願掛けの「蛸の絵」。
それにしても、この神社は、広く、建築物も見ごたえがあります。
拝殿の屋根は、鬼と龍と波、龍宮城や浦島太郎まで登場し、いかにも勇壮華麗な海人の氏神さま。
建築物は江戸時代のもので、県や市指定有形文化財の貴重なものが多数あります。関ヶ原の戦いの折にこの地でも激戦があり、全焼しましたが、加藤清正公により再建されました。神楽殿は清正公が建てたものが現存しています。
また、小野宮司家は現存する江戸時代の社家住宅として貴重なもの、「祈祷所・潔斎の間・大名の間」が残されています。各地の大名の宿泊所にもなり、測量に歩いた伊能忠敬も宿泊しました。
立派であること、古い由緒ある建築物が残っていることも、素晴らしいのですが、
何より素晴らしいと思うのは、
手入れが行き届き、空間が生きていること。
地元の人たちが丁寧に大切に整えているのが伝わってくる気がするのです。
築山古墳のある八幡神社もそうでしたが、ここ早吸日女神社もそう。
漁をして、氏神さまの立派な神社を(負担も大変でしょうに)大切に守り、そして、守られている。
そう、お互い様。守り守られ、なのだと思います。
海と暮らす人の想いが伝わってきます。
自分にも誰にでも、当たり前だったはずの、地に足の着いたこういう暮らしに出会ったときに、うらやましいような思いがこみ上げるのです。
絵馬も蛸!
拝殿の正面、青海波に龍。豪壮で華やか
浦島太郎や
龍宮城も
神社入り口の鳥居は肥後の初代藩主、細川忠利の寄進
鳥居をくぐったら総門。希少は八脚門。
総門をくぐって手を清め、さらに鳥居をくぐる
くぐって右へ。拝殿、本殿に続く
広い空と緑に抱かれた拝殿。広い境内の周りも見渡す限り空と木々。
案内板によると、「屋根は当地方の瓦技法を伝え、棟鬼瓦の唐獅子、千鳥破風の獅子口、大棟瓦の虎に竹、唐破風(青海波)の鬼と龍と波、両端の浦島太郎に龍宮城と華麗な屋根となっている」
拝殿内部には柱にも蛸の絵
「蛸断ち祈願」。願いがたくさん
拝殿右手から本殿の裏へまわる。手前が本殿、左奥の先ほど拝んだ拝殿から回ってきた。
加藤清正公がたてた神楽殿が残る
お守りを頂こうと立ち寄ると、蛸の絵馬がありました。
早吸日女神社の由緒と小野宮司社家のこと
青い海が広がる。速吸瀬戸といって流れが複雑で速い難所。
佐賀関の漁師がこの海から関あじ関さばを届けます。海沿いの食堂にて
築山(つきやま)古墳―女性首長と朱― Tsukiyama-Old tomb, Oita-City
葬られた主が女性首長であること。
34㎏もの朱が使われていたこと。
なんと言ってもこの2点で忘れられなくなる古墳です。
全長90m、後円部45mと、大分県3番目の規模の前方後円墳です。
石棺や石室に朱で文様が描かれていただけでも、「すごいすごい」と古墳して見学しますのに、「34㎏の朱」とは一体どんな様子なのでしょう?説明によれば「バケツで汲むほど」と表現をされまして、発見時はさぞや注目を浴びたことと想像します。
最高位の贅沢葬です。
先に紹介した亀塚古墳とこの築山古墳はすぐ近くで、丹生(にう)川が別府湾にそそぐ高台にあります。「丹」が「生」まれる、という気になる名前。
そういえば、と連想したのが、国東半島の北にある宇佐神宮です。宇佐神宮は、奈良東大寺の大仏建立に大量の銅を送り支援しています。(田川の採銅所という地名の聖なる場所で銅を産出して、‥…という面白いテーマはまた改めて)
銅を奈良に送ったように、「あをによし=青丹よし」と詠われた(諸説ありますが)、青と赤で彩られた都の美しさは、この地域から「丹(に)」も送られて活躍したのか?、などと想像がひろがります。
この古墳の後円部には、亀塚古墳と同じく地元産の緑泥片岩の板を組み合わせた箱型石棺が2基。南石棺に3体、北石棺に1体が葬られており、南棺の中央、一番古い人骨が「海部の女王」とのこと。
ここで、豊後国風土記の「土蜘蛛」が気になります。中央の圧力に抵抗した、各地の在地首長が「土蜘蛛」として登場しますが、豊後国風土記にはそれが際立って多いのです。景行天皇が土蜘蛛たちを打ち負かしてゆく様と、現在、それと重なる場所に地形や地名や伝承が、とても興味深く、現地を見る目が変わります。(珍しく?、古事記と日本書紀でほぼ同じ内容)。
この物語の中で、女性首長と思われる人物がたくさん出てきます。当時はシャーマン的な首長が多かったとは言え、豊後は肥前国風土記と並び、突出して多い地域。出土品からもそれが伺えます。
ここ海部にも、海に潜り、海を渡り、活躍した女王がいた。
目の前の青くきらきら光る海と暮らしていたのです。
この古墳の発見は、神社の植樹の時に、氏子さんたちが鍬を入れて石棺を見つけたのがきっかけです。今も古墳は神社と一体で、石棺発見後は地元で「石棺さま」と信仰を集め、「石棺溝」が結ばれたり、毎年「石棺さま祭り」が行われたりしています。
石棺さまの覆い屋はきれいに掃除され、花が活けられています。
地元の方による案内板には「私たちの祖先が海と生きてきた」ことが書かれ、「私たちの父でもあり母でもある、神崎の海山を守りましょう」とありました。
出土品などは亀塚古墳公園内の資料館にて。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
古墳のある神崎八幡神社は、海人らしく、波頭が勇壮に。
大分市の地図。別府湾を望む高台に県下最大の亀塚古墳、少し東に県下3番目の大きさの築山古墳。豊後水道は庭のようなもの。
亀塚から岬へ向けて海沿いを少し走ると築山古墳。目の前は別府湾、正面は四国が見えそう。
神社の鳥居の左手奥のこんもりした小山が築山古墳
海がまばゆい道から一歩入ると、鬱蒼とした古い森に囲まれ神社があり、裏手に築山古墳
神崎八幡神社。地元の方に大切に整えられている。
まずはご参拝を
地続きの右手の小山が築山古墳
境内に面して案内板も。ここから登っていく。
築山古墳の後円部、46m
後円部からみた前方部。全長90m。
境内にはパンフレットが貼られている。
後円部の頂上には、石棺を埋め戻して覆い屋を建てた。
南棺と北棺の覆い屋が隣接。
覆い屋周辺も地元の方に綺麗に掃除されている。
「石棺さま」。内部には埋め戻された石棺
人骨が3体。中央の女性が海部の女王。昭和8年の図面
覆い屋にかけられた案内板。地域の方が祖先として大切にされているのが伝わる。
毎年10月には「石棺さま祭り」
神社の屋根瓦が独特の雰囲気です
波頭。海人の氏神様らしい装い。小さな神社なのに勇壮な趣。
ここからは、
海部古墳資料館の展示パネルより
亀塚古墳・海部古墳資料館 Kamezuka-Old tomb, Oita-City
「此の郡(こおり)の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部(あまべ)の郡という。」
豊後国風土記に記された一文です。
豊後国は日田・玖珠・直入・大野・海部・大分・速見・国埼の8つの郡から成り、海部(あまべ)郡はそのひとつ。
豊後水道に面し、関アジ関サバで知られる、海の幸に恵まれた土地です。
突端の岬から四国の西端との距離はわずか31㎞。
フェリーで70分。
今も毎日16便が往来する交通の要所です。
そんな立地ですから、海人族が多く住んだ古代の海部郡は、航行を司る拠点でした。
別府湾沿岸に築かれた前方後円墳10基のうち、この亀塚古墳は、大分県最大の巨大古墳です。
全長116m、後円部62m、墳丘は3段築成。
テラスには円筒形・朝顔形・船形・家形・盾形という様々な形象埴輪がずらりとめぐらされました。
特徴的なのは、白い石英質の葺石です。
想像してみてください。
瀬戸内海を抜けてきた目に飛び込む、はるか高台にそびえる美しく威厳ある姿。白く輝く堂々たる姿の周囲には、赤い埴輪がぐるりと囲んでいる。
紺碧の海の中で浮かび上がるその威風堂々たる姿は、海部を支配した大首長の力をうかがうにふさわしい古墳です。
今、現地へ見学にいくと、一帯が公園として整備され、「海部資料館」に海部郡や大分全域の出土品や資料展示がありとても面白く過ごせます。
いかにも海人族らしい、船やスイジガイが刻まれた埴輪は必見。
赤色顔料がほどこされた石棺も地域色として興味をひくきポイントです。
亀塚古墳の横にある小さな高まり、小亀塚古墳も面白い。
古墳時代中期には、国東半島の北へ古墳の築造が移っていくのですが、海部勢力が弱まっていった時期を証明する貴重な古墳です。絶大な力を誇った亀塚古墳の被葬者と、その力を他所にゆずり消えてゆく時代の小亀塚古墳の被葬者。2つ並んだ古墳に、2人の人生を、想ってしまいます。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
116mを越える巨大前方後円墳。3段築成のテラスには、様々な形の形象埴輪がずらりとめぐる。
墳丘部へ登る。古墳の大きさが伝わりますでしょうか。
造り出しも設けられています。
大きい!規模に圧倒されます。公園として整備されています。
豊後水道の出入口、四国の突端と手が届きそうば立地。まっすぐ陸を西へ抜けると有明海に至る、交通の要所。
亀塚古墳公園の案内図。亀塚古墳、小亀塚古墳、海部古墳資料館が一体となっています。
古墳の墳丘頂上より。四国の陸が見えます。
亀塚古墳の案内板。
後円部には2ヶ所の埋葬主体部。
地元産の緑泥片岩を使った「海部の石棺」と言われるもの。板石を組み合わせた箱型石棺。
中には朱が塗られ、副葬品のスペースが区切られている。
主体部の出土状況。案内板より。
巨大な前方後円墳のすぐ横には、小さな古墳。小亀塚古墳は、海部の首長が勢力を失っていく時期を示す貴重な古墳。
隣接の海部古墳資料館
いま立っているエリアの当時の情景
竪穴式石室を造らず、墓壙を掘って直接おさめる直葬方法が海部地域の特徴。
海部の主要古墳。このエリアに県下最大の亀塚古墳、それに次ぐ築山古墳、臼塚古墳が。いずれも主要ルートの出入り口を抑えている。
豊後国風土記の一文、「此の郡の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部の郡という。」
亀塚古墳。大分県最大の前方後円墳。
埴輪に刻まれた「船」(亀塚古墳)
「船」の部分。船から延びる櫂?
埴輪に刻まれた「スイジガイ」。
スイジガイの文様
スイジガイの文様
スイジガイのぎざぎざの縁がくっきり。
海部王にふさわしい副葬品(しかし調査時にはすでに破壊されていた)
1号主体部からは滑石製曲玉もこんなに。
豊後水道という重要な交通路に面し、海と生きた民だった