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西南学院大学博物館 ツタのからまるレンガ壁
Japan 日々あれこれ 現地しっかりルポ

波打つ階段。西南学院大学博物館 -Seinan Gakuin University Museum-

素敵なキャンパスに誘われて、そうだ久しぶりに博物館に入ろうと思い立ちました。

美しい赤レンガ館。歩くといつも、ペギー葉山さんのあの歌が頭で響き始めます。

一歩入ると、磨きこまれた木の柔らかな雰囲気と、刻まれた時間と、ここで過ごした学生たちの大切なものが混じりあったような、外界と違うしんとした空気に包まれます。

何度も来ているこの館で、今日、急に魅かれたことがあります。

それは・・・

 

「波打つ階段」。

 

100年間、学生たちが歩き、座り、触り、笑いあった跡が、しっかりと残されているという驚き。

いいえ、
残っているのでなく、
残したのだと、
思いました。

建物が黙しつつ饒舌に語ることがある。
修復の際に意志を持ってそれを残すことがある。
そういうことかもしれない、などと。

2015年に100周年を迎えた学院の、数年年下のこの建物は、アメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリーズにより1921(大正10)年に完成しました。

16年前まで高校の現役の学び舎として活躍していたここは、学校が百道浜の新校舎へ移転した折に、キリスト教をテーマとした博物館となり一般にも公開されています。

建物に包まれて、建物と会話して、ありがとうという幸せな気持ちに満たされました。

<展示について。「魔鏡」はぜひ!>—————–

必見は「魔鏡」(江戸時代)です。
これを観るだけでも足を運んで良かったと思えるはず。

魔鏡とは、鏡の背面に目で見えないぐらいのわずかな凹凸を刻むことで光の乱反射が起こり、白壁などに像が映し出されるしくみです。ところが!ここに展示されている鏡は、背面を目で見たときの文様とは全く違う絵柄が壁に映し出されるという驚きの作品です。

展示の前に立ち、スイッチを入れて光があたると、

・・・壁にキリストが現れます!

禁教下での信仰が生んだもの。解説には「非常に高い技術に裏付けられた魔鏡中の傑作」とあります。

■西南学院大学博物館は 公式HP
■W.M.ヴォーリス氏は(株)一粒社ヴォーリズ建築事務所
建築群や宣教師からメンソレータムまで!

 

【写真コーナー】——————–

西南学院大学博物館(ドージャー記念館)。 福岡県指定有形文化財(2015) 福岡市都市景観賞を受賞(2000)
西南学院大学博物館 ツタのからまるレンガ壁

赤レンガ風で統一されたキャンパス。抜けるような青空と素晴らしくマッチ。
西南学院大学キャンパスはレンガ風で美しい

このチャペルで16年前まで祈りがささげられていました。
見事なツタ

建物はもうすぐ100才
SEINAN GAKUIN 1920

外壁と主な内壁はレンガ造り、屋根は木造トラス、床は木造。ジョージアンコロニアルスタイルを基調とする建物そのものが、見応えある展示物です
西南学院大学博物館(ドージャー記念館)は福岡県指定有形文化財

1階が展示室、2階と3階が吹き抜けの講堂。この講堂は校舎移転まではチャペルでした
正面玄関の白いドア

キリスト教関係の資料が展示されています。室内展示品は撮影できません
1階の廊下つきあたりが常設展示室

廊下のレプリカは、 ルーブル美術館蔵の「メシャ碑文」
入口すぐのメシャ碑文(レプリカ)

メシャ碑文

階段をあがり建物見学へ
2階への階段

ギシギシとわずかに鳴る足元の床も、光までも、柔らかく緊張を解くような
光あふれる階段踊り場

窓の外にツタと青空

2階ホールには当時の設計図。設計者は宣教師・建築家のW.M.ヴォーリス。
建築時の設計図

手書きのサイン。
AUDITORIUM&ADMINISTRATION BUILDING FOR  FUKUOKA MIDDLE SCHOOL KYUSHU
設計図の手書きサイン

1921(大正10)年から、ついこの前の2003(平成15)年まで、高校生が毎日を過ごしていたのです
ドージャー記念館の建物プロフィール

修復にあたっては、建築当時の写真や資料を徹底的に調べ、照明に至るまで同様に復元したそう
チャペル

柱も、窓も、
チャペル吹き抜けの様子

磨きこまれた長椅子も、変わらずそこにある。
磨きこまれた木の椅子

最前列から入り口方向を。

吹き抜けの3階から。入学式も卒業式も、お祈りもここで。
チャペル3階席から見下ろす

今回、急に魅せられたのは、
階段 磨きこまれた木の味わい

ほぼすべてが「そのまま」ということ。ただ、木の床だから優しい印象だったのでなく、

よくよく見ると、学生たちが踏みしめた部分がすり減っている。真ん中は歩かないんですね。左右2列に柔らかくへこんで波打っている。
差し込む光と木造の階段

こんなにカーブを描くんだ!
すり減った木造階段

式典や会合やミサ、学生たちだけでない多くの人を思うと、100年でどれだけの歩を受けたのだろうか。
波打つ階段

椅子もそのまま。きれいに修復はされたのでしょうが、
チャペルの椅子は昔のまま

何万回と座った跡がみえるようです。
木造イスの深い艶

たくさんの学生がつかんだ跡も、

座れば、その時の景色がそのまま、当人なら友人の声やざわめきまで聞こえるのかも。

たまに帰ることができるこういう場のおかげで、誇りを思い出し、感謝を思い出し、よしもう一度頑張ろうと背中を押してもらえるのだろう。いつもは忘れられている位が、ちょうどいい距離なのかもしれない。
西南学院博物館(ドージャー記念館)チャペルの全景

 

 

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福岡タワーから望む能古島
Japan 現地しっかりルポ

志賀島から可也山まで。博多湾を一望しながら話も想いも尽きません -Shikanoshima Iland,Kaya-mountain-

ツアーでいつも、志賀島から博多湾一帯と福岡平野の最奥の防衛線「水城」を遠望いただきますが、今日は反対側から。
百道浜の福岡タワーからの眺めです。

志賀島を拠点にした阿曇族が荒波を越えていく風景、
遣唐使船が出て行った風景、
大挙して押し寄せる元寇の船に湾が埋め尽くされた風景、
先の終戦後には引き揚げの人々が故郷へ上陸した風景。

海を見ていると話も想いも尽きません。

 

 

【写真コーナー】————–

眼下の博多湾、右手(東)に浜が続き、最奥のあたりからぐるりと西へ向かって「海の中道」が伸びてゆきます。その左先には志賀島が。
福岡タワーから望む海の中道

 

海の中道の真ん中あたりの向こうに、わずかですが島影が盛り上がっているのが見えますでしょうか。台形の平たく崖がストンと落ちている島、これが相島、積石塚のある島です。
その向こう側が、宗像大社の中津宮・沖津宮のある大島・沖ノ島、ムナカタ族の海。志賀島を拠点に、相島あたりからこちら側が、阿曇族の海です。
海の中道の向こうに相島がみえる


視線を少し左へ動かすと、海の中道の突端、福岡タワーから見ると北の方角に、志賀島、左の大きな島は能古島です。
作家・壇一雄氏が終の棲家とされた島、
井上陽水さんのあの名曲で砂がサラサラ泣いた島です。
福岡タワーから望む能古島

 

博多湾が外海から守られた良港とわかります。
この海岸線に、元寇の時にはぐるりと石築地(防塁)を築きましたが、防塁からはずれた志賀島に蒙古軍が上陸して凄惨な戦いがありました。
博多湾の出口に見える志賀島

 

西の方角は糸島半島。伊都国のエリアです。西の先に糸島半島の可也山が見えます。美しい姿は糸島富士と呼ばれます。左手(南の方角)には福岡平野が広がります。
福岡タワーから見下ろす西側の街並み

 

糸島半島に陽が沈みます。
糸島の可也山に沈む夕陽

 

可也山に沈む夕陽。糸島富士のシルエット。
福岡タワーから可也山のシルエットが美しい

 

江戸時代、福岡城を出て唐津街道を一里きたこのあたり(今の地下鉄藤崎あたり)で糸島富士が見え、行く先に見えたぞ、富士が見えたぞ、さきにふじ、ふじさき。というどこかで耳にした話もあります。(謎)

でも、今も藤崎には道行きの神、猿田彦神社があり、地元の崇敬篤く、福岡の住まいの玄関には、戸建てでもマンションでも、小さな猿のお面の焼物がかけてあるのをよく見かけます。大みそかから新年、猿田彦神社には大勢がつめかけます。一年の願をかけ猿を新しいものに取り換えます。こういう「ならわし」は良いものだなあ、と温かくなります。

 

 

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古宮古墳 刳り抜き式石棺を正面から
Japan 現地しっかりルポ

古宮古墳 ―九州唯一、巨岩を刳りぬいた石棺式石室―

 

別府湾沿岸の古墳をみていると、不思議なことがあります。

それは、古宮古墳。
これは一体、何なのでしょう?

別府湾沿岸では、

4~5世紀に、
大型前方後円墳が集中して築かれたのは、わかりました。

6世紀には、
ぱったりと全盛期を終え、もっと北の京都(みやこ)平野、(今の苅田~行橋)へ中心が移ったこともわかりました。

西暦600年前後に、
別府湾の古墳年表が空白になってから100年をおいて、いくつかの装飾古墳が築かれたのは在地の歴史をあらわしています。

そして、

さらに時を経て7世紀の半ばに、
最後の古墳として「古宮古墳」がポツリと築かれるのです。

しかも、九州で唯一の、刳り抜き式の石棺型石室。

一体なぜ、突然に?
一体なぜ、刳り抜き式という珍しくかつ贅をこらしたものが?
一体、この墓の主は誰なのでしょう?

 

海部古墳資料館の展示解説によれば、
「大化2(646)年の薄葬令により、死者の身分に応じた墓制が定められました。前方後円墳は姿を消し、小型の方墳や円墳に石棺式石室や漆塗木棺、高松塚古墳に代表される絵画装飾など美しく整えられた古墳に変わっていきました。」

大化の改新の一環で大規模古墳は姿を消し、墓制には厳格なルールが導入されました。

別府湾沿岸の高台に残る古宮古墳の築造は、この時期にあたります。

同時期の例としてあがるものは、なんとも煌びやか!

天武・持統陵石室、
高松塚古墳、
牽牛子塚古墳など。

高松塚の美人画や、牽牛子塚古墳の“八角形”などが、高句麗との繋がりをも連想させます。古宮古墳も、そんな流れの中にあるのでしょうか。

 

古宮古墳は、薄葬令によると「上臣(大臣)クラス」相当の方墳です。
大分のこの地で、その被葬者は…? となると、
死後に天武天皇から外小紫(とのしょうし)の位を送られた、

「大分君恵尺(えさか)」、

であろうと言われています。

壬申の乱で大活躍した人物として、
大分君恵尺(えさか)と稚臣(わかみ)が、日本書紀の天武紀に記されています。

また、現地に立つとよくわかるのですが、
この古墳は、なんと「風水思想」にも合致しているのです。
これも当時、朝鮮半島経由で伝わってきたもの。

当時の都で、高松塚やキトラや牽牛子塚に大陸文化の薫りが込められた、その同じ時代に、

位の高い主を葬るために作られた古宮古墳も、同じように大陸文化を体現しているものだとしたら…。

そんな目でこの高台に立ち、
恵尺の人生を想像すると、
身近な人としての息吹が立ち上るようです。

大分から出てゆき、都で活躍し、
歴史の大舞台に立ち、
大陸文化に触れて高揚し、
その薫りをまとい・・・。

そして最期に眠る場所は、故郷の大分なのだなあ、と。

 

 

「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html

*石室の写真は大分市教育委員会に取材許可を得て撮影、掲載しています。転載はご遠慮ください
*古墳現地は入り口に格子の扉があり通常は中へは入れませんが、格子を通して奥の様子を見ることができます

 

巨大な岩を刳りぬいた石棺型石室
古宮古墳 刳り抜き式石棺を正面から

 

 

石室の内部
古宮古墳の石棺内部

 

石室入り口部分、何重にも重層的に刻まれ飾られている
古宮古墳の石棺入口の加工

 

岩のアップ
古宮古墳の岩をアップで見る

 

日暮れだった為ライトで照らしつつ

 

一帯は整備された公園。高台にあり急な階段を登る
急な階段を上り高台の古宮古墳へ

 

石室からの眺め。風水に基づく立地を体感します
古墳から街を一望

 

現地の案内板
古宮古墳の解説

 

古宮古墳の墳丘復元図

 

古宮古墳の設計断面図

 

 

石室実測図

 

 

 

 

現地の写真(大分市観光協会より)。石室入り口の格子扉を通して内部を観れる
公園内の様子

 

 

 

4・5世紀に別府湾沿岸に、6世紀に北部の京都平野に、集中しているのがわかる。年代的にはちょうど磐井の乱が境。そこの興味は機を改めて。
(以下、海部古墳資料館の展示パネル)
東九州の古墳の移りかわりパネル

 

 

別府湾沿岸で、突如一番最後に「古宮古墳」が現れる
古宮古墳の時代がわかる

 

 

 

 

 

終末期の古墳と大分君
大分君の解説パネル

 

 

 

その当時の石室。高松塚、牽牛子塚など重要な古墳ばかり。
美人画、天文、四神、八角形など気になることばかりの時代

古墳時代終末期の石室比較図

 

 

大化2年の薄葬令の厳格なルールと、古宮古墳にみえる風水思想
薄葬令と古宮古墳

大分君恵沢と稚臣

古宮古墳の風水思想

古宮古墳の場所。別府湾沿岸は瀬戸内への入り口として重要な場所

 

 

 

 

 

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臼塚古墳の短甲形石人(石甲)
Japan 現地しっかりルポ

臼塚古墳―海人の耳― Usuzuka-Old tomb,Usuki-City

何に驚いたかって、耳の穴が小さくなった頭蓋骨です。

耳の入り口の軟骨が盛り上がり、丸いはずの耳の穴が扁平になっています。潜水を繰り返す海族たちは、水から自分を守るために体がこう変わる、海人にはよくあるということです。

体が変化するほどのプロのすごさに感嘆。
そして、プレイングマネージャーであることに、感嘆!

臼塚古墳の立派な石棺に葬られたこの地の首長といえども、耳の軟骨の形が変わるほど海にもぐっていたということ。一方では、将来は王になることが約束され、幼いころから腕を動かせないほどたくさんの貝輪(威信財)をはめ、おそらく掃除洗濯、狩りなどすることもなかった首長が眠る古墳も、他の土地にはあるでしょう。

臼塚古墳の2つの石棺には、それぞれに2体が眠り、すべてが外耳道骨腫をもっていました。海部の海人族たちは、一人残らず当たり前に、潜り、櫓をこぎ、嵐の海と向き合い、大海原をかけたのだろうと、その姿が浮かび上がってくるようです。

 

そして、副葬品のすごさ!

「位至三公鏡」「獣帯鏡」の中国製の二面の鏡。
勾玉・鉄剣・鉄刀・貝輪など。
海部地域で大きな力を誇っていたのがわかります。

さらに、

「短甲型石人」は必見です。
鎧を身に着け、真っ赤に朱で彩色された石人が2体、古墳の主を悪霊から守っていました。今は石人は神社の参道の入り口に移されていますが、当時は前方後円墳のくびれ部に並んで立っていました。参道でひっそりとたたずんでいる石人は、近づいて当時のままの姿を見ることができます。脇や足元に朱が残っています。この2人は、あれから1500年ほどの長い間、ずっと主人を守っているのだろうな。お疲れ様です、と頭をたれて離れました。

 

臼塚古墳は現在、臼杵神社の境内となっており、石人は鳥居をくぐったすぐ横に、石棺は後円部の端のほうに、位置を変えて残っています。
お社まで登ると、この古墳が高台にあり、一族が治めていた地域どこからでも堂々とした姿を眺められるように築かれているのがわかります。

海部古墳資料館で、頭蓋骨や鏡などのレプリカ展示を観ることができます。
が、神社に飾られている発掘当時の本物の写真の生々しさがすごかった。現地で景色を見ながら体感できることは、やはり迫力がちがいます。

昭和54年に、当時の皇太子殿下が見学においでになられたパネルが飾ってありました。水運のご研究にとって、この海部の海人族は興味深いものだったのでしょうか。

 

ここ海部から阿蘇へ向けての豊後大野一帯は、後の時代には磨崖仏も多くあります。有名な臼杵の摩崖仏だけではないのです。小さく味のある山椒の小粒のようなぴりりと味わい深い石仏摩崖仏が本当に多い。また、豊後はクリスチャン大名の地でもあり、大野川の上流の竹田では、全国に類を見ない“隠しキリシタン”の歴史もあります。「隠れ」ではなく「隠し」キリシタン。豊後は深くて面白いところです。

「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html

 

丸かった耳の穴が扁平になるほど、骨が盛り上がっている頭蓋骨。海人の集団、臼塚古墳の特徴のひとつ。
海部古墳資料館の展示(レプリカ)
臼塚古墳の頭蓋骨

頭蓋骨はここに眠っていた。舟形石棺2基にそれぞれ2体が。
臼塚古墳の舟形石棺

臼杵神社の境内に、臼塚古墳はある。
臼杵神社の入口に臼塚古墳の碑

鳥居をくぐると、
臼塚古墳への参道

すぐ右手に、石人2体の覆いや。元は古墳の上にあったもの
右手に臼塚古墳の短甲形石人(石甲)2体

お社へ。前方後円墳を横から、くびれ部あたりを登る形。
臼塚古墳の墳丘に臼杵神社本殿と拝殿

全長87m、後円部45mの前方後円墳
臼塚古墳の石甲の解説

後円部の中央に建つ社殿の裏にまわると、
臼杵神社の本殿裏に石棺が

石棺がここに移されている。

舟形石棺2基
臼塚古墳の舟形石棺

縄掛け突起も大きい。側面にも、それぞれ、4ヶ所と3ヶ所
臼塚古墳の石棺、縄かけ突起が側面にも

裏手から見る
石棺には大きな縄かけ突起

 

 

石棺の縄かけ突起は側面にも

 

 

石棺の解説

 

 

くびれ部から前方部を観る
臼塚古墳の前方部

遠く山並みも望む高台、絶好の立地とわかる
臼塚古墳墳丘から遠くの山並みを望む

後円部の向こうには田園風景が広がる。
臼塚古墳後円部の墳丘からは広大な平野が

古墳の下、入り口の鳥居の横
くびれ部から神社参道に移設された短甲形石人(石甲)

短甲型石人が2体。もとは古墳の上、くびれ部のあたりで主を守っていた。赤く見えるのは朱の残り?
臼塚古墳の短甲形石人(石甲)

石人(石甲)にはべんがらの赤が残る

 

 

 

海部古墳資料館の展示
臼塚古墳石棺の頭蓋骨レプリカ(海部古墳資料館)

臼塚古墳人骨の外耳道骨腫解説

 

上の2点が臼塚古墳出土。
海部古墳資料館の展示

臼塚古墳出土の位至三公鏡

臼塚古墳出土の獣帯鏡

 

臼塚古墳の埴輪にも短甲型。すそ部分
臼塚古墳の遺物(展示)

臼塚古墳の短甲形埴輪(展示)

臼塚古墳の貝釧と貝輪(展示)

 

社殿に展示された発掘時の写真。迫力あり!
石棺出土の頭蓋骨写真

昭和54年、皇太子時代の天皇陛下がご見学に
臼塚古墳ご見学の皇太子時代の天皇

浩宮殿下 大分の旅での御感想

 

帰りに見ると、臼杵神社の入り口に
臼塚古墳 浩宮様御足跡之地の碑

 

この古墳から大野川をさかのぼるとこんな風景が続く。川をさかのぼると竹田から阿蘇へと続く。風土記の土蜘蛛たちが活躍していた豊かなこの場所は、滝や洞窟が多く、ジオパークにも認定されている本当に美しい土地。磨崖仏も多い。大小いろいろ、あちこちにある。

その地その地にひっそり立ち、今も地元の方が大切に守り守られ、暮らしに溶け込んでいる石仏が、とてもいいお顔と風情で、「また会いに来ます」と言葉が出るのです。
大野川と豊後大野の平野の眺め

 

 

 

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