波の音があまりに良くて、
思わず浜に座りこむ。
博多湾。
新羅使も渤海使も行き来した海。
空海も最澄も大陸へと漕ぎ出た海。
日宋貿易で中国商人が闊歩した海。
元寇が押し寄せた海。
先の終戦後は大勢が引き揚げてきた海。
目の前の島は能古島。
作家・檀一雄が終の棲家とされた島。
井上陽水のあの名曲で砂がサラサラ泣いた島。
今この浜は、
韓国中国の旅行者に人気のスポットで、
たくさんの若者が自撮り棒で熱心に写真撮影中。
多くのことを呑み込んで、
穏やかな穏やかな波の音。
遺跡好きが作る現地へ行きたい人のためのブログ
遺跡好きが作る現地へ行きたい人のためのブログ
新しい時代となりました。
私たちがいつも本で読み、
講座で学ぶことが、
目の前で繰り広げられています。
今もこの場所も私たちも、
1000年、2000年の後には、
同じように過去の歴史となっていきます。
いつも触れている歴史も、
単なる文字やモノでなく、
遠い過去の時間の中で生きた「人」だということ。
血が通い、
喜怒哀楽があり、
世の理不尽や無常、
そして希望の積み重ねであったということ。
当たり前のことに思いが至ります。
豆粒のようなこの毎日を、
せめて明るく一所懸命、
いい時代だったねと
バトンタッチできるように過ごしたい。
*
「令和」で話題の大宰府政庁を空からどうぞ。
(写真は昨年)
古代山城の大野城の右の麓に「大宰府政庁」、
政庁左奥に隣接するのが”令和”で話題の「坂本八幡宮」、
右には「学校院跡」や天智天皇(中大兄皇子)が母の斉明天皇を弔うために建てた「観世音寺」、
少し離れた右奥の青い屋根が「九州国立博物館」、
その手前の森が菅原道真公を祀る「太宰府天満宮」です。
白村江の敗戦後には、
この古代山城で、
遠く博多湾を見張り、
今日なのか明日なのかと
唐の大軍が攻めてくることにおびえ、
緊迫した長い長い時間を送った時もあったとは。
歴史に惹かれるのはそこに「人」があるから。
場所を越えて、今この時の横軸へ。
時間を越えて、今この場の縦軸へ。
縦横無尽にもっともっと「人」に会いに行く。
では良い一日、良い時代を!

ツアーでいつも、志賀島から博多湾一帯と福岡平野の最奥の防衛線「水城」を遠望いただきますが、今日は反対側から。
百道浜の福岡タワーからの眺めです。
志賀島を拠点にした阿曇族が荒波を越えていく風景、
遣唐使船が出て行った風景、
大挙して押し寄せる元寇の船に湾が埋め尽くされた風景、
先の終戦後には引き揚げの人々が故郷へ上陸した風景。
海を見ていると話も想いも尽きません。
【写真コーナー】————–
眼下の博多湾、右手(東)に浜が続き、最奥のあたりからぐるりと西へ向かって「海の中道」が伸びてゆきます。その左先には志賀島が。

海の中道の真ん中あたりの向こうに、わずかですが島影が盛り上がっているのが見えますでしょうか。台形の平たく崖がストンと落ちている島、これが相島、積石塚のある島です。
その向こう側が、宗像大社の中津宮・沖津宮のある大島・沖ノ島、ムナカタ族の海。志賀島を拠点に、相島あたりからこちら側が、阿曇族の海です。


視線を少し左へ動かすと、海の中道の突端、福岡タワーから見ると北の方角に、志賀島、左の大きな島は能古島です。
作家・壇一雄氏が終の棲家とされた島、
井上陽水さんのあの名曲で砂がサラサラ泣いた島です。

博多湾が外海から守られた良港とわかります。
この海岸線に、元寇の時にはぐるりと石築地(防塁)を築きましたが、防塁からはずれた志賀島に蒙古軍が上陸して凄惨な戦いがありました。

西の方角は糸島半島。伊都国のエリアです。西の先に糸島半島の可也山が見えます。美しい姿は糸島富士と呼ばれます。左手(南の方角)には福岡平野が広がります。

糸島半島に陽が沈みます。

可也山に沈む夕陽。糸島富士のシルエット。

江戸時代、福岡城を出て唐津街道を一里きたこのあたり(今の地下鉄藤崎あたり)で糸島富士が見え、行く先に見えたぞ、富士が見えたぞ、さきにふじ、ふじさき。というどこかで耳にした話もあります。(謎)
でも、今も藤崎には道行きの神、猿田彦神社があり、地元の崇敬篤く、福岡の住まいの玄関には、戸建てでもマンションでも、小さな猿のお面の焼物がかけてあるのをよく見かけます。大みそかから新年、猿田彦神社には大勢がつめかけます。一年の願をかけ猿を新しいものに取り換えます。こういう「ならわし」は良いものだなあ、と温かくなります。
別府湾沿岸の古墳をみていると、不思議なことがあります。
それは、古宮古墳。
これは一体、何なのでしょう?
別府湾沿岸では、
4~5世紀に、
大型前方後円墳が集中して築かれたのは、わかりました。
6世紀には、
ぱったりと全盛期を終え、もっと北の京都(みやこ)平野、(今の苅田~行橋)へ中心が移ったこともわかりました。
西暦600年前後に、
別府湾の古墳年表が空白になってから100年をおいて、いくつかの装飾古墳が築かれたのは在地の歴史をあらわしています。
そして、
さらに時を経て7世紀の半ばに、
最後の古墳として「古宮古墳」がポツリと築かれるのです。
しかも、九州で唯一の、刳り抜き式の石棺型石室。
一体なぜ、突然に?
一体なぜ、刳り抜き式という珍しくかつ贅をこらしたものが?
一体、この墓の主は誰なのでしょう?
海部古墳資料館の展示解説によれば、
「大化2(646)年の薄葬令により、死者の身分に応じた墓制が定められました。前方後円墳は姿を消し、小型の方墳や円墳に石棺式石室や漆塗木棺、高松塚古墳に代表される絵画装飾など美しく整えられた古墳に変わっていきました。」
大化の改新の一環で大規模古墳は姿を消し、墓制には厳格なルールが導入されました。
別府湾沿岸の高台に残る古宮古墳の築造は、この時期にあたります。
同時期の例としてあがるものは、なんとも煌びやか!
天武・持統陵石室、
高松塚古墳、
牽牛子塚古墳など。
高松塚の美人画や、牽牛子塚古墳の“八角形”などが、高句麗との繋がりをも連想させます。古宮古墳も、そんな流れの中にあるのでしょうか。
古宮古墳は、薄葬令によると「上臣(大臣)クラス」相当の方墳です。
大分のこの地で、その被葬者は…? となると、
死後に天武天皇から外小紫(とのしょうし)の位を送られた、
「大分君恵尺(えさか)」、
であろうと言われています。
壬申の乱で大活躍した人物として、
大分君恵尺(えさか)と稚臣(わかみ)が、日本書紀の天武紀に記されています。
また、現地に立つとよくわかるのですが、
この古墳は、なんと「風水思想」にも合致しているのです。
これも当時、朝鮮半島経由で伝わってきたもの。
当時の都で、高松塚やキトラや牽牛子塚に大陸文化の薫りが込められた、その同じ時代に、
位の高い主を葬るために作られた古宮古墳も、同じように大陸文化を体現しているものだとしたら…。
そんな目でこの高台に立ち、
恵尺の人生を想像すると、
身近な人としての息吹が立ち上るようです。
大分から出てゆき、都で活躍し、
歴史の大舞台に立ち、
大陸文化に触れて高揚し、
その薫りをまとい・・・。
そして最期に眠る場所は、故郷の大分なのだなあ、と。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
*石室の写真は大分市教育委員会に取材許可を得て撮影、掲載しています。転載はご遠慮ください
*古墳現地は入り口に格子の扉があり通常は中へは入れませんが、格子を通して奥の様子を見ることができます
巨大な岩を刳りぬいた石棺型石室

石室の内部

石室入り口部分、何重にも重層的に刻まれ飾られている

岩のアップ

日暮れだった為ライトで照らしつつ

一帯は整備された公園。高台にあり急な階段を登る

石室からの眺め。風水に基づく立地を体感します

現地の案内板





現地の写真(大分市観光協会より)。石室入り口の格子扉を通して内部を観れる

4・5世紀に別府湾沿岸に、6世紀に北部の京都平野に、集中しているのがわかる。年代的にはちょうど磐井の乱が境。そこの興味は機を改めて。
(以下、海部古墳資料館の展示パネル)

別府湾沿岸で、突如一番最後に「古宮古墳」が現れる


終末期の古墳と大分君

その当時の石室。高松塚、牽牛子塚など重要な古墳ばかり。
美人画、天文、四神、八角形など気になることばかりの時代


大化2年の薄葬令の厳格なルールと、古宮古墳にみえる風水思想



古宮古墳の場所。別府湾沿岸は瀬戸内への入り口として重要な場所

何に驚いたかって、耳の穴が小さくなった頭蓋骨です。
耳の入り口の軟骨が盛り上がり、丸いはずの耳の穴が扁平になっています。潜水を繰り返す海族たちは、水から自分を守るために体がこう変わる、海人にはよくあるということです。
体が変化するほどのプロのすごさに感嘆。
そして、プレイングマネージャーであることに、感嘆!
臼塚古墳の立派な石棺に葬られたこの地の首長といえども、耳の軟骨の形が変わるほど海にもぐっていたということ。一方では、将来は王になることが約束され、幼いころから腕を動かせないほどたくさんの貝輪(威信財)をはめ、おそらく掃除洗濯、狩りなどすることもなかった首長が眠る古墳も、他の土地にはあるでしょう。
臼塚古墳の2つの石棺には、それぞれに2体が眠り、すべてが外耳道骨腫をもっていました。海部の海人族たちは、一人残らず当たり前に、潜り、櫓をこぎ、嵐の海と向き合い、大海原をかけたのだろうと、その姿が浮かび上がってくるようです。
そして、副葬品のすごさ!
「位至三公鏡」「獣帯鏡」の中国製の二面の鏡。
勾玉・鉄剣・鉄刀・貝輪など。
海部地域で大きな力を誇っていたのがわかります。
さらに、
「短甲型石人」は必見です。
鎧を身に着け、真っ赤に朱で彩色された石人が2体、古墳の主を悪霊から守っていました。今は石人は神社の参道の入り口に移されていますが、当時は前方後円墳のくびれ部に並んで立っていました。参道でひっそりとたたずんでいる石人は、近づいて当時のままの姿を見ることができます。脇や足元に朱が残っています。この2人は、あれから1500年ほどの長い間、ずっと主人を守っているのだろうな。お疲れ様です、と頭をたれて離れました。
臼塚古墳は現在、臼杵神社の境内となっており、石人は鳥居をくぐったすぐ横に、石棺は後円部の端のほうに、位置を変えて残っています。
お社まで登ると、この古墳が高台にあり、一族が治めていた地域どこからでも堂々とした姿を眺められるように築かれているのがわかります。
海部古墳資料館で、頭蓋骨や鏡などのレプリカ展示を観ることができます。
が、神社に飾られている発掘当時の本物の写真の生々しさがすごかった。現地で景色を見ながら体感できることは、やはり迫力がちがいます。
昭和54年に、当時の皇太子殿下が見学においでになられたパネルが飾ってありました。水運のご研究にとって、この海部の海人族は興味深いものだったのでしょうか。
ここ海部から阿蘇へ向けての豊後大野一帯は、後の時代には磨崖仏も多くあります。有名な臼杵の摩崖仏だけではないのです。小さく味のある山椒の小粒のようなぴりりと味わい深い石仏摩崖仏が本当に多い。また、豊後はクリスチャン大名の地でもあり、大野川の上流の竹田では、全国に類を見ない“隠しキリシタン”の歴史もあります。「隠れ」ではなく「隠し」キリシタン。豊後は深くて面白いところです。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
丸かった耳の穴が扁平になるほど、骨が盛り上がっている頭蓋骨。海人の集団、臼塚古墳の特徴のひとつ。
海部古墳資料館の展示(レプリカ)

頭蓋骨はここに眠っていた。舟形石棺2基にそれぞれ2体が。

臼杵神社の境内に、臼塚古墳はある。

鳥居をくぐると、

すぐ右手に、石人2体の覆いや。元は古墳の上にあったもの

お社へ。前方後円墳を横から、くびれ部あたりを登る形。

全長87m、後円部45mの前方後円墳

後円部の中央に建つ社殿の裏にまわると、

石棺がここに移されている。

舟形石棺2基

縄掛け突起も大きい。側面にも、それぞれ、4ヶ所と3ヶ所

裏手から見る





くびれ部から前方部を観る

遠く山並みも望む高台、絶好の立地とわかる

後円部の向こうには田園風景が広がる。

古墳の下、入り口の鳥居の横

短甲型石人が2体。もとは古墳の上、くびれ部のあたりで主を守っていた。赤く見えるのは朱の残り?



海部古墳資料館の展示



上の2点が臼塚古墳出土。
海部古墳資料館の展示



臼塚古墳の埴輪にも短甲型。すそ部分



社殿に展示された発掘時の写真。迫力あり!

昭和54年、皇太子時代の天皇陛下がご見学に



帰りに見ると、臼杵神社の入り口に

この古墳から大野川をさかのぼるとこんな風景が続く。川をさかのぼると竹田から阿蘇へと続く。風土記の土蜘蛛たちが活躍していた豊かなこの場所は、滝や洞窟が多く、ジオパークにも認定されている本当に美しい土地。磨崖仏も多い。大小いろいろ、あちこちにある。
その地その地にひっそり立ち、今も地元の方が大切に守り守られ、暮らしに溶け込んでいる石仏が、とてもいいお顔と風情で、「また会いに来ます」と言葉が出るのです。

亀塚古墳、築山古墳からさらに岬へ向かうと、佐賀関という漁師町があります。
あの全国に名を馳せる、関あじ・関さばの漁の基地。目の前の豊後水道は、潮の流れが速く複雑で、そこで身をもまれた魚が、本当に美味しいのです!
この佐賀関に、古くより地元の信仰篤い早吸日女(はやすひめ)神社があります。
亀塚古墳、築山古墳に眠る海人族から、脈々と今に続く、海に生きる土地の氏神様は、小さな町なのにあまりに立派な神社で驚きます。
この名前、「早吸日女」は、
風土記にでてくる「速来津媛」からきているのでは?
「速来津媛」だとすれば、風土記の土蜘蛛(中央への抵抗勢力)のうちのひとつで、一族を守るための策をとったと思われます。この地を率いた女性首長は、悩み苦しみ、政治的決断を下したのだろうと、少しせつない思いにとらわれてしまいます。
神社御由緒には、「海」「海女」「女性」というキーワードが。
神話時代の、神武天皇東遷の折の逸話が由来とされています。
東遷の途中ここへ立ち寄られた折、黒砂(いさご)・真砂(まさご)の海女二神が海の底にもぐり、大蛸が守護する神剣をとりあげて奉献、神武天皇がその剣を当地に祀ったのが神社の始まりと。
その剣が、この早吸日女神社のご神体となっています。
今も地元の方は「蛸断ち祈願」で願をかけ、蛸の絵を奉納します。
ご神体の剣を大蛸が守っていたことからきている風習だそうです。
絵馬にも「大蛸」、拝殿の中には願掛けの「蛸の絵」。
それにしても、この神社は、広く、建築物も見ごたえがあります。
拝殿の屋根は、鬼と龍と波、龍宮城や浦島太郎まで登場し、いかにも勇壮華麗な海人の氏神さま。
建築物は江戸時代のもので、県や市指定有形文化財の貴重なものが多数あります。関ヶ原の戦いの折にこの地でも激戦があり、全焼しましたが、加藤清正公により再建されました。神楽殿は清正公が建てたものが現存しています。
また、小野宮司家は現存する江戸時代の社家住宅として貴重なもの、「祈祷所・潔斎の間・大名の間」が残されています。各地の大名の宿泊所にもなり、測量に歩いた伊能忠敬も宿泊しました。
立派であること、古い由緒ある建築物が残っていることも、素晴らしいのですが、
何より素晴らしいと思うのは、
手入れが行き届き、空間が生きていること。
地元の人たちが丁寧に大切に整えているのが伝わってくる気がするのです。
築山古墳のある八幡神社もそうでしたが、ここ早吸日女神社もそう。
漁をして、氏神さまの立派な神社を(負担も大変でしょうに)大切に守り、そして、守られている。
そう、お互い様。守り守られ、なのだと思います。
海と暮らす人の想いが伝わってきます。
自分にも誰にでも、当たり前だったはずの、地に足の着いたこういう暮らしに出会ったときに、うらやましいような思いがこみ上げるのです。
絵馬も蛸!

拝殿の正面、青海波に龍。豪壮で華やか

浦島太郎や

龍宮城も

神社入り口の鳥居は肥後の初代藩主、細川忠利の寄進


鳥居をくぐったら総門。希少は八脚門。



総門をくぐって手を清め、さらに鳥居をくぐる

くぐって右へ。拝殿、本殿に続く

広い空と緑に抱かれた拝殿。広い境内の周りも見渡す限り空と木々。

案内板によると、「屋根は当地方の瓦技法を伝え、棟鬼瓦の唐獅子、千鳥破風の獅子口、大棟瓦の虎に竹、唐破風(青海波)の鬼と龍と波、両端の浦島太郎に龍宮城と華麗な屋根となっている」




拝殿内部には柱にも蛸の絵

「蛸断ち祈願」。願いがたくさん


拝殿右手から本殿の裏へまわる。手前が本殿、左奥の先ほど拝んだ拝殿から回ってきた。


加藤清正公がたてた神楽殿が残る



お守りを頂こうと立ち寄ると、蛸の絵馬がありました。

早吸日女神社の由緒と小野宮司社家のこと



青い海が広がる。速吸瀬戸といって流れが複雑で速い難所。

佐賀関の漁師がこの海から関あじ関さばを届けます。海沿いの食堂にて

葬られた主が女性首長であること。
34㎏もの朱が使われていたこと。
なんと言ってもこの2点で忘れられなくなる古墳です。
全長90m、後円部45mと、大分県3番目の規模の前方後円墳です。
石棺や石室に朱で文様が描かれていただけでも、「すごいすごい」と古墳して見学しますのに、「34㎏の朱」とは一体どんな様子なのでしょう?説明によれば「バケツで汲むほど」と表現をされまして、発見時はさぞや注目を浴びたことと想像します。
最高位の贅沢葬です。
先に紹介した亀塚古墳とこの築山古墳はすぐ近くで、丹生(にう)川が別府湾にそそぐ高台にあります。「丹」が「生」まれる、という気になる名前。
そういえば、と連想したのが、国東半島の北にある宇佐神宮です。宇佐神宮は、奈良東大寺の大仏建立に大量の銅を送り支援しています。(田川の採銅所という地名の聖なる場所で銅を産出して、‥…という面白いテーマはまた改めて)
銅を奈良に送ったように、「あをによし=青丹よし」と詠われた(諸説ありますが)、青と赤で彩られた都の美しさは、この地域から「丹(に)」も送られて活躍したのか?、などと想像がひろがります。
この古墳の後円部には、亀塚古墳と同じく地元産の緑泥片岩の板を組み合わせた箱型石棺が2基。南石棺に3体、北石棺に1体が葬られており、南棺の中央、一番古い人骨が「海部の女王」とのこと。
ここで、豊後国風土記の「土蜘蛛」が気になります。中央の圧力に抵抗した、各地の在地首長が「土蜘蛛」として登場しますが、豊後国風土記にはそれが際立って多いのです。景行天皇が土蜘蛛たちを打ち負かしてゆく様と、現在、それと重なる場所に地形や地名や伝承が、とても興味深く、現地を見る目が変わります。(珍しく?、古事記と日本書紀でほぼ同じ内容)。
この物語の中で、女性首長と思われる人物がたくさん出てきます。当時はシャーマン的な首長が多かったとは言え、豊後は肥前国風土記と並び、突出して多い地域。出土品からもそれが伺えます。
ここ海部にも、海に潜り、海を渡り、活躍した女王がいた。
目の前の青くきらきら光る海と暮らしていたのです。
この古墳の発見は、神社の植樹の時に、氏子さんたちが鍬を入れて石棺を見つけたのがきっかけです。今も古墳は神社と一体で、石棺発見後は地元で「石棺さま」と信仰を集め、「石棺溝」が結ばれたり、毎年「石棺さま祭り」が行われたりしています。
石棺さまの覆い屋はきれいに掃除され、花が活けられています。
地元の方による案内板には「私たちの祖先が海と生きてきた」ことが書かれ、「私たちの父でもあり母でもある、神崎の海山を守りましょう」とありました。
出土品などは亀塚古墳公園内の資料館にて。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
古墳のある神崎八幡神社は、海人らしく、波頭が勇壮に。

大分市の地図。別府湾を望む高台に県下最大の亀塚古墳、少し東に県下3番目の大きさの築山古墳。豊後水道は庭のようなもの。

亀塚から岬へ向けて海沿いを少し走ると築山古墳。目の前は別府湾、正面は四国が見えそう。

神社の鳥居の左手奥のこんもりした小山が築山古墳

海がまばゆい道から一歩入ると、鬱蒼とした古い森に囲まれ神社があり、裏手に築山古墳

神崎八幡神社。地元の方に大切に整えられている。



まずはご参拝を

地続きの右手の小山が築山古墳

境内に面して案内板も。ここから登っていく。


築山古墳の後円部、46m

後円部からみた前方部。全長90m。

境内にはパンフレットが貼られている。


後円部の頂上には、石棺を埋め戻して覆い屋を建てた。
南棺と北棺の覆い屋が隣接。
覆い屋周辺も地元の方に綺麗に掃除されている。

「石棺さま」。内部には埋め戻された石棺

人骨が3体。中央の女性が海部の女王。昭和8年の図面

覆い屋にかけられた案内板。地域の方が祖先として大切にされているのが伝わる。

毎年10月には「石棺さま祭り」

神社の屋根瓦が独特の雰囲気です

波頭。海人の氏神様らしい装い。小さな神社なのに勇壮な趣。


ここからは、
海部古墳資料館の展示パネルより




「此の郡(こおり)の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部(あまべ)の郡という。」
豊後国風土記に記された一文です。
豊後国は日田・玖珠・直入・大野・海部・大分・速見・国埼の8つの郡から成り、海部(あまべ)郡はそのひとつ。
豊後水道に面し、関アジ関サバで知られる、海の幸に恵まれた土地です。
突端の岬から四国の西端との距離はわずか31㎞。
フェリーで70分。
今も毎日16便が往来する交通の要所です。
そんな立地ですから、海人族が多く住んだ古代の海部郡は、航行を司る拠点でした。
別府湾沿岸に築かれた前方後円墳10基のうち、この亀塚古墳は、大分県最大の巨大古墳です。
全長116m、後円部62m、墳丘は3段築成。
テラスには円筒形・朝顔形・船形・家形・盾形という様々な形象埴輪がずらりとめぐらされました。
特徴的なのは、白い石英質の葺石です。
想像してみてください。
瀬戸内海を抜けてきた目に飛び込む、はるか高台にそびえる美しく威厳ある姿。白く輝く堂々たる姿の周囲には、赤い埴輪がぐるりと囲んでいる。
紺碧の海の中で浮かび上がるその威風堂々たる姿は、海部を支配した大首長の力をうかがうにふさわしい古墳です。
今、現地へ見学にいくと、一帯が公園として整備され、「海部資料館」に海部郡や大分全域の出土品や資料展示がありとても面白く過ごせます。
いかにも海人族らしい、船やスイジガイが刻まれた埴輪は必見。
赤色顔料がほどこされた石棺も地域色として興味をひくきポイントです。
亀塚古墳の横にある小さな高まり、小亀塚古墳も面白い。
古墳時代中期には、国東半島の北へ古墳の築造が移っていくのですが、海部勢力が弱まっていった時期を証明する貴重な古墳です。絶大な力を誇った亀塚古墳の被葬者と、その力を他所にゆずり消えてゆく時代の小亀塚古墳の被葬者。2つ並んだ古墳に、2人の人生を、想ってしまいます。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
116mを越える巨大前方後円墳。3段築成のテラスには、様々な形の形象埴輪がずらりとめぐる。

墳丘部へ登る。古墳の大きさが伝わりますでしょうか。

造り出しも設けられています。

大きい!規模に圧倒されます。公園として整備されています。

豊後水道の出入口、四国の突端と手が届きそうば立地。まっすぐ陸を西へ抜けると有明海に至る、交通の要所。
亀塚古墳公園の案内図。亀塚古墳、小亀塚古墳、海部古墳資料館が一体となっています。

古墳の墳丘頂上より。四国の陸が見えます。

亀塚古墳の案内板。





後円部には2ヶ所の埋葬主体部。

地元産の緑泥片岩を使った「海部の石棺」と言われるもの。板石を組み合わせた箱型石棺。

中には朱が塗られ、副葬品のスペースが区切られている。

主体部の出土状況。案内板より。



巨大な前方後円墳のすぐ横には、小さな古墳。小亀塚古墳は、海部の首長が勢力を失っていく時期を示す貴重な古墳。


隣接の海部古墳資料館


いま立っているエリアの当時の情景

竪穴式石室を造らず、墓壙を掘って直接おさめる直葬方法が海部地域の特徴。

海部の主要古墳。このエリアに県下最大の亀塚古墳、それに次ぐ築山古墳、臼塚古墳が。いずれも主要ルートの出入り口を抑えている。

豊後国風土記の一文、「此の郡の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部の郡という。」

亀塚古墳。大分県最大の前方後円墳。

埴輪に刻まれた「船」(亀塚古墳)

「船」の部分。船から延びる櫂?

埴輪に刻まれた「スイジガイ」。

スイジガイの文様

スイジガイの文様

スイジガイのぎざぎざの縁がくっきり。

海部王にふさわしい副葬品(しかし調査時にはすでに破壊されていた)

1号主体部からは滑石製曲玉もこんなに。

豊後水道という重要な交通路に面し、海と生きた民だった

温泉地「別府」。血の池地獄や坊主地獄などユニークな地獄が数多く、眼下の別府湾のあちら側には猿山・高崎山が、こちら側には六郷満山・国東半島が見える観光地です。
でも、この別府湾沿岸は大型古墳が集中するエリアでもあり、それがあまり知られていないのがとても残念。
地図をご覧になってみてください。地勢からみて面白くないわけがない。古代の歴史の宝庫です。
古代の営みを見るときに、大事なのは川。
ここでは阿蘇から悠々と流れきて別府湾へ注ぐ、大野川が歴史を育みました。
ところで、
九州島の、大分と反対の西側は有明海に面します。大河・筑後川が有明海に注ぐ出口に、家具で有名な大川という町がありますが、その辺りを車で走っていると標識に「竹田」と出てきて驚くことがあります。
遠すぎるし、なぜここで、あの山の奥の竹田?
現代の道や行政区画に慣れているとピンときませんが、竹田は阿蘇山の麓、九州のへそに位置し、古代から交通の結節点でした。
有明海から阿蘇→竹田、そして竹田から大野川に沿って別府湾へと至ります。そこから海路で瀬戸内を経て近畿へ。
古代の幹線だったと理解できますね。標識の「→竹田」は名残でもあり、今も生きているルートなのです。
この重要なルート上には、筑紫君磐井が豊後へ落ち延びた話、景行天皇巡行の行宮、風土記の「鼠」たち(抵抗した在地豪族)などなど、古代の多くの伝承が残っています。各地で女性首長が一族を率いて活躍するのもこのエリア。
別府湾の前方後円墳は、海人たちを思わせる出土品ばかり。
ヤマトに必要とされた、海と生きている地元豪族の姿が想像されます。
古墳の時代変遷をみると、国東半島の南の別府湾から、北の周防灘沿岸に移っていくのも興味深い。ヤマトは、朝鮮半島との往来のために、より北に、海人の拠点が必要になったのでしょうか。
別府湾エリアの、亀塚古墳、築山古墳、臼塚古墳、それと意味深でユニークな古宮古墳を1本ずつ書いてゆきます。
【写真コーナー】——————–
大分高速道の別府湾SAからの景色。左は国東半島。右手に目的の古墳があるエリアが続き、湾の向こうにはすぐそこに四国。パノラママップと照らしてみて下さい。


ヤマトから瀬戸内の主要大型古墳。瀬戸内の出入り口として国東半島の南の別府湾、北の行橋・苅田の位置的重要性がわかる。
(海部古墳資料館の展示より)

別府湾エリアの主要古墳

亀塚古墳。大分県最大の前方後円墳。葺石に白い石英質の石が用いられ、海から見たときに、白い堂々たる姿が光り輝いたはず

築山古墳。亀塚に注ぐ大きさ。女性首長の墓。石棺の中には朱が多量に!

臼塚古墳。海人を示す耳骨腫の頭骨が出たのもここ。石人は八女の石人石馬との関係が気になる。有名な臼杵磨崖仏の近く

3段の上から順に、福岡東部~宇佐エリア、国東~別府湾エリア、下は他のエリアの大型古墳(宮崎の生目・西都原、八女の岩戸山など)。
1番上の段で苅田の石塚山が最初に現れたあと、2番目の段の宇佐から別府湾に集中して築かれ、その後それが北部(1番上の段)へ移っていったのがわかる

宇佐、国東、別府湾から大野川流域。大型古墳が終焉を迎えたのち、最後の時期に築かれた古宮古墳は注目すべき古墳。これもご紹介します

大型の前方後円墳、亀塚、築山、臼塚をご紹介します

最後の時期、古宮古墳は、ヤマトとのつながりを語る。九州唯一の刳り抜き型の石棺式石室

亀塚古墳

亀塚古墳の船が書かれた埴輪

亀塚古墳のスイジガイ文様の埴輪

築山古墳

築山古墳。石棺には女性

築山古墳。石棺には3体の人骨

岬の突端、早吸日女(はやすひめ)神社。今も海人の神

竜宮城や、

浦島太郎も。

臼塚古墳の石棺

臼塚古墳の鎧をつけた石人

古宮古墳の案内板

古宮古墳。刳り貫き型の石棺式石室。
これら古墳を、一ヶ所ずつご紹介してゆきます

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