何に驚いたかって、耳の穴が小さくなった頭蓋骨です。
耳の入り口の軟骨が盛り上がり、丸いはずの耳の穴が扁平になっています。潜水を繰り返す海族たちは、水から自分を守るために体がこう変わる、海人にはよくあるということです。
体が変化するほどのプロのすごさに感嘆。
そして、プレイングマネージャーであることに、感嘆!
臼塚古墳の立派な石棺に葬られたこの地の首長といえども、耳の軟骨の形が変わるほど海にもぐっていたということ。一方では、将来は王になることが約束され、幼いころから腕を動かせないほどたくさんの貝輪(威信財)をはめ、おそらく掃除洗濯、狩りなどすることもなかった首長が眠る古墳も、他の土地にはあるでしょう。
臼塚古墳の2つの石棺には、それぞれに2体が眠り、すべてが外耳道骨腫をもっていました。海部の海人族たちは、一人残らず当たり前に、潜り、櫓をこぎ、嵐の海と向き合い、大海原をかけたのだろうと、その姿が浮かび上がってくるようです。
そして、副葬品のすごさ!
「位至三公鏡」「獣帯鏡」の中国製の二面の鏡。
勾玉・鉄剣・鉄刀・貝輪など。
海部地域で大きな力を誇っていたのがわかります。
さらに、
「短甲型石人」は必見です。
鎧を身に着け、真っ赤に朱で彩色された石人が2体、古墳の主を悪霊から守っていました。今は石人は神社の参道の入り口に移されていますが、当時は前方後円墳のくびれ部に並んで立っていました。参道でひっそりとたたずんでいる石人は、近づいて当時のままの姿を見ることができます。脇や足元に朱が残っています。この2人は、あれから1500年ほどの長い間、ずっと主人を守っているのだろうな。お疲れ様です、と頭をたれて離れました。
臼塚古墳は現在、臼杵神社の境内となっており、石人は鳥居をくぐったすぐ横に、石棺は後円部の端のほうに、位置を変えて残っています。
お社まで登ると、この古墳が高台にあり、一族が治めていた地域どこからでも堂々とした姿を眺められるように築かれているのがわかります。
海部古墳資料館で、頭蓋骨や鏡などのレプリカ展示を観ることができます。
が、神社に飾られている発掘当時の本物の写真の生々しさがすごかった。現地で景色を見ながら体感できることは、やはり迫力がちがいます。
昭和54年に、当時の皇太子殿下が見学においでになられたパネルが飾ってありました。水運のご研究にとって、この海部の海人族は興味深いものだったのでしょうか。
ここ海部から阿蘇へ向けての豊後大野一帯は、後の時代には磨崖仏も多くあります。有名な臼杵の摩崖仏だけではないのです。小さく味のある山椒の小粒のようなぴりりと味わい深い石仏摩崖仏が本当に多い。また、豊後はクリスチャン大名の地でもあり、大野川の上流の竹田では、全国に類を見ない“隠しキリシタン”の歴史もあります。「隠れ」ではなく「隠し」キリシタン。豊後は深くて面白いところです。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
丸かった耳の穴が扁平になるほど、骨が盛り上がっている頭蓋骨。海人の集団、臼塚古墳の特徴のひとつ。
海部古墳資料館の展示(レプリカ)
頭蓋骨はここに眠っていた。舟形石棺2基にそれぞれ2体が。
臼杵神社の境内に、臼塚古墳はある。
鳥居をくぐると、
すぐ右手に、石人2体の覆いや。元は古墳の上にあったもの
お社へ。前方後円墳を横から、くびれ部あたりを登る形。
全長87m、後円部45mの前方後円墳
後円部の中央に建つ社殿の裏にまわると、
石棺がここに移されている。
舟形石棺2基
縄掛け突起も大きい。側面にも、それぞれ、4ヶ所と3ヶ所
裏手から見る
くびれ部から前方部を観る
遠く山並みも望む高台、絶好の立地とわかる
後円部の向こうには田園風景が広がる。
古墳の下、入り口の鳥居の横
短甲型石人が2体。もとは古墳の上、くびれ部のあたりで主を守っていた。赤く見えるのは朱の残り?
海部古墳資料館の展示
上の2点が臼塚古墳出土。
海部古墳資料館の展示
臼塚古墳の埴輪にも短甲型。すそ部分
社殿に展示された発掘時の写真。迫力あり!
昭和54年、皇太子時代の天皇陛下がご見学に
帰りに見ると、臼杵神社の入り口に
この古墳から大野川をさかのぼるとこんな風景が続く。川をさかのぼると竹田から阿蘇へと続く。風土記の土蜘蛛たちが活躍していた豊かなこの場所は、滝や洞窟が多く、ジオパークにも認定されている本当に美しい土地。磨崖仏も多い。大小いろいろ、あちこちにある。
その地その地にひっそり立ち、今も地元の方が大切に守り守られ、暮らしに溶け込んでいる石仏が、とてもいいお顔と風情で、「また会いに来ます」と言葉が出るのです。