瀬戸内海から外海へ出てゆく重要なポイント、 別府湾沿岸の海人族のことを書きながら、 一週間ぐらい頭の中が海でい …
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祈りの土面ーママチ遺跡
北海道の地震により亡くなられた方々、
ご家族様へお悔やみを申し上げます。
被災された方々へお見舞いを申し上げますとともに、
一刻も早い復旧をお祈りしております。
今週、私どものツアーで、
モヨロ貝塚から垣ノ島遺跡まで
北海道を横断したばかり。
函館を発ったその夜中に地震が起きました。
現地へ気持ちを寄せ、
北海道全域の、北海道民皆さまの、
安寧と日常の復旧を祈るばかりです。
大自然を怖れ、感謝し、工夫を重ね、
継続を大事に共生した生き方を、
このたびも深く刻ませて頂きました。
写真の土面はキウスの近く、
千歳市内のママチ遺跡出土のもの。
千歳市埋蔵文化財センターで拝見してきました。
祈りの土面です。
以下、土面の解説より
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縄文時代の人々は、
人の力が及ばない生と死、
大自然の力に対する恐れや感謝、
願いなどの気持ちをもって
生きていたと考えられます。
さまざまな出来事に対する
気持ちを表す方法として、
土面や土偶、
子供の足跡などをつけた土版など、
粘土を用いた土製品がつくられたようです。
これらの土製品は特別な意味を持つ道具として、
いろいろな決まりの中でつくられ、
儀式の際などにも使われたと考えられます。
土製品は、
縄文時代に豊かな心の文化があったことを示す
大切な資料です。
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天の真名井で醸した日本酒で、この身も清められたような
天の真名井(あめのまない)。
宗像三女神の次女・湍津姫神(たぎつひめ)を祀る大島の中津宮にあります。
境内のはずれ、鬱蒼とした坂を下ったところに湧き出ている聖水。この天の真名井の御神水で醸した日本酒があります。その名も「沖ノ島」。
真名井という名は各地にあり、神社に、滝に、霊水に、名付けられています。真名井とは聖水・清浄な水の意味で、「天の真名井」はその最大級の敬称です。
宗像では江戸時代からの酒蔵が2軒、今も地元に愛されるお酒を手作りで醸し続けています。
伊豆本店は享保2年(1717年)創業。
勝屋酒造は寛政2年(1790年)創業。
伊豆本店からは国宝をラベルにした神酒「宗像」が。
勝屋酒造からは天の真名井で醸された「沖ノ島」が。
世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、古代から今も変わらず続く海の民の祈りです。
天照大神の三女神、
「田心姫神(たごりひめ)」
「湍津姫神(たぎつひめ)」
「市杵島姫神(いちきしまのひめ)」を、
沖津宮・中津宮・辺津宮でお祀りしています。
三女神へ手を合わせてご参拝したら、一酌も、ありがたくいただきます。
【写真コーナー】—————-
大島の「中津宮」。鳥居の向こうには大島港が見える
大島の北側は見渡す限り、玄界灘!運が良ければ遠くに沖ノ島が見える
中津宮の参道入り口
森に囲まれた階段を登るのは身を清められているよう
中津宮の拝殿。厳か。
こちらは秋の神事「みあれ祭」前日の風景。沖津宮と中津宮の二女神のこの輿が明日には大船団に守られ湾を渡る。一年に一度、三女伸が辺津宮で会す大事な日。
古事記の一節。天照大神の勅。「海北道中(玄界灘)で神を助け奉りなさい」
え!「宗像大神を奉斎する神社は全国に六千余社」も!?
そういえば、島根の出雲大社でも広島の厳島神社でも、見ました。
うっそうとした坂を下り「天の真名井」へ
霊水「天真井」
中津宮御神水「天の真名井」で醸した「沖ノ島」と、大島限定販売の「おおしま」
今や福岡のお土産の定番、ご当地めんべい。宗像はわかめ入りの「宗像わかめんべい」。パッケージはもちろん三女神!海の道むなかた館のミュージアムショップには地元のおいしい海産加工品も多くて評判が高いのですが、中でもこれは人気商品です。
海女のルーツと「アマアルキ」。鐘崎と能登の交流のワケが江戸時代にあったとは!
海女も、海の民です。
命がけの素潜りで干しアワビなどの交易品を支えた海女たちも、荒れる玄界灘を大陸へと渡った海人たちも、同じ海の民でした。
鐘崎は海女発祥の地です。
2017年に世界文化遺産に登録された、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群。宗像の漁師たちは古代からずっと宗像大社の三女神への信仰篤く、今も禁忌を守り続けます。
その宗像大社の秋の大祭の3日間は「みあれ祭」で始まります。大船団が満艦飾の大漁旗をはためかせ、湾を埋め尽くす壮麗な神事「みあれ祭」。勇壮な光景に見ているだけで高揚もしますし、同時に、思わず涙腺が緩むような胸に迫るものがあります。七浦の港の漁師たちの大船団。あの写真はどこかできっとご覧になっていますね。
鐘崎は、その七浦のひとつです。
海はすべてを運びます。
遣唐使も、
北前線も、
海女も、
海が運んでゆきました。
海女の出稼ぎを「アマアルキ」と言いました。江戸時代、海女は海流に乗って遠くまで流れ、各地に分村を作りました。遠くは能登半島までたどりついたそうです。能登の遺跡めぐりの折、某所の鎮守様であるお寺の案内板に「鐘崎海女が居ついた」という文を見た時には、あまりに意表をつかれ驚きました。渤海使を迎えた客館があるはずという地を、遠く中国の東北地方を描きながらめぐっていた時ですから、「鐘崎」がこんなところに!?ととても印象に残っています。
海女たちは、たくましく潜り、たくましく稼ぎました。
中国への輸出品として高価に取引される干しアワビなどで、海女たちが江戸時代の地域経済を支えたことは見逃せません。
同じ福岡県内、福岡市の志賀島でも、海女たちが今も潜っています。現役最高齢は75才と聞きました。
おかげで当地では、地元の海女さんたちが採るアワビもサザエも、ありがたく美味しく、いただいています。
ここは海の民の地だと感じる、幸せな時です。
【写真コーナー】——————
玄界灘を眺める「筑前鐘崎海女の像」。海女発祥の地、鐘崎漁港にて
鐘崎の鎮守様「織幡宮」に、海女の像は立っている
岬の突端の高台、急な階段をあがったら海を一望できる。有明海方面の古社とも縁が深く、記紀にも出てくる由緒あるお宮です
みあれ祭を守る七浦のひとつ、鐘崎漁港。湾の突端の小高い丘に織幡宮と海女の像。
「海女発祥の地 鐘崎」の碑。
「先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で各方面で大活躍をした。特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である」
海流にのってどこまでも「アマアルキ」と言われた出稼ぎに。能登半島の輪島で「鐘崎海女が居ついた」という案内板を見た時は驚いた!
(写真は海の道むなかた館 展示パネル)
江戸時代の中国貿易に干しアワビの需要が高まり、出稼ぎ・移住で海女の技術を広めた。ノウハウ伝授の先人です。
対馬海流にのって、隠岐の島にも、能登半島までも。貿易品に珍重された俵物三品は、干しアワビ・イリコ・フカヒレ。
(以上、海の道むなかた館展示パネル)
鐘崎海女の道具は福岡県の文化財
(海の道むなかた館 展示)
鐘崎海女のおかげで、美味しいアワビをいただけます。しあわせ。
同じ福岡県内で西へ40㎞の志賀島でも博多湾に潜る海女が活躍中。こちらはサザエが有名。志賀海神社参道の中西食堂は大人気で、フランスからの観光客も探し当てて来店すると聞き、驚き。
次々と注文が。ジュージューと焼ける音と美味しそうな香り!
サザエを採る海女さん、最高齢は75才と聞いた。あれから2年‥。
博多湾は内海なので志賀島サザエは柔らかい。今までお連れした方、皆さん絶賛!です
鐘崎漁港の朝焼け
今日も一日が暮れる
海女たちも見た夕陽。ここは海の民の地(鐘崎港から望む)
254基の積石塚。海岸線に累々と続く謎の墓
254基の積石塚もすごいけれど、
膨大な石ころ群にしか見えない海岸を、調査復元するのがすごすぎる!
相島(あいのしま)。
最近、猫の島で有名になり、渡船がいつもいっぱいだそうです。
私たちが渡った日も、韓国の若い人たちが団体で乗船、島に着くなりしゃがみこんで猫をなでたりさすったり。猫人気は、国際的です。
歴史好きの方には、
「積石塚(つみいしづか)」のほうがピンときますでしょう。
海岸線に積石塚が254基も続く光景はここでしか体験できません。
積石塚は日本でも 各地にありますが、
最大のものは長野市松代の大室古墳群で約500基。
ここ相 島は日本で2番目の規模です。
積石塚は高句麗の墓制として有名ですが、ここはそれとは直接の関係はないとのこと。なぜここに積石塚が?と、妄想が膨らみます。
某CMで“◎らし”が「光の道」の美しさに感動する場面。
あれで一躍全国的に有名になったのが宮地嶽神社の参道です。
彼らが座っていたベンチは写真撮影の聖地と化したそうです。
その時のその視線の一直線の先に浮かんでいるのが、積石塚の相島です。
相島が浮かぶ海は、
古代には、志賀島を本拠とする阿曇族が活躍する海でした。
江戸時代には、江戸へ向かう朝鮮通信使一行をもてなした島でした。
海岸線の積石塚に眠る人々はどんな人たちだったのでしょうか。
最近では、水中考古学の調査が行われています。
奈良の都へ向かう船が沈没したらしき、平安時代の九州産の瓦が引き上げられたのです。
どの時代にも、海路の重要なポジションだったのがわかります。
海は今もとても綺麗で、港のすぐ横では真珠の養殖をしています。
海辺にミキモトの加工場があり、いまや年間10万粒も送り出されているとか。
美しい海と古代のドラマがある島は、
福岡タワーが近くに見える場所でもあります。
飛行機が福岡空港へ向けて降下する直前には、
左の窓のすぐ眼下に積石塚を見おろすことができます。
福岡はビルが集中する都会ですけれど、海も日常。
「海」を知ると、もっともっと面白くなる街です。
海岸線の254基の積石塚。見学はここからスタート。ソウルの石村洞古墳群を思い出す姿です。あちらは高句麗の墓制ですが、ここは高句麗とは無関係とか。
4世紀の終わりから6世紀にかけて造られ続けました。加耶系の初期須恵器が出ています。国指定史跡。
皆さんで見学中の古墳が、最大の相島大塚(120号墳)
相島大塚(120号墳)の海側に回る。案内板が。
登ってみると、前方後方墳に竪穴式石室が開口している。草が生き生きと伸びて写真は花壇のように見えてしまいますが。。天井石がなくなっているし盗掘もされていたが、須恵器が出ている。
海岸線に累々と続く
右手の岬の先が名勝・鼻栗瀬。この海底で平安時代に博多で焼かれた瓦が見つかり、水中考古学の調査が注目されている。都へ運ぶ船の転覆か?
島内をぐるりと回りながら港へ戻る。途中、いろいろな時代の史跡が残る。
港の近くに「朝鮮通信使客館跡」。300~500人の通信使一行へ、黒田藩のもてなしが、ここで盛大丁重になされていた。
港の待合所には、島で一軒の「丸山食堂」
海鮮ちゃんぽん、オススメです
港のすぐ横では、真珠の養殖が
ミキモトの加工場があり、今や年間10万粒の出荷
新宮港まで15分の船旅。気持ちいい!福岡タワーまで見えます
あぁ~、青いなあ~!ずっと着かなければいいなあ。
こちらは宮地嶽神社の参道(福津市)。CMで全国に知られた「光の道」は夕陽がまっすぐにここへ。参道のまっすぐ先に浮かぶのが相島で、宮地嶽神社の巨石古墳の石材も関係がある。
「光の道」のポスター。相島に夕陽が沈み、参道に真っ赤な光が一直線に。
阿曇族の本拠地・志賀島。古代から続く志賀海神社は海と生きる人々の信仰篤き宮
海の青さと広さ。
ここが福岡市内、しかも福岡空港から車で30分の近さと聞くと、驚く方も多いです。
でもこれが福岡のそもそもの姿。
昔からずっと、海と生きた、海の民なのだと思っています。
万葉集でも海人や藻塩のことが詠われ、海とともに生きていた志賀島が二十首も登場します。
国宝・金印が出たことで有名なここ志賀島(しかのしま)は、古代の海の民「阿曇族」の本拠地。志賀海(しかうみ)神社への信仰篤く、わたつみの神と生きてきた地です。
世界遺産となったムナカタ族と同じで、志賀海神社も中津宮と沖津宮をあわせた3宮が島にあります。表・中・底の、わたつみ三神です。
今年、面白いプロジェクトが動いています。
1つは、九州大学ソーシャルアートラボとのコラボです。安曇族にちなんだ神楽歌 「阿知女作法」の沖津宮での奉納など。
もう1つは、京都観世会館でのお能です。桃山時代より謡い継がれる志賀海神社伝承の謡曲を、能の形として復曲、京都で初上演とのこと。
海の民「阿曇族」&能舞台。福岡市の横顔が芸術にいかに昇華するのか楽しみです!
ところで、
「阿曇族」をテーマとして毎年福岡で行われているシンポジウムがあります。
古代、阿曇族はここから全国各地へ散ってゆきました。海を経て川を遡り、その地へ根付きました。いま各地に「あずみ」の名が多く残っており、全国ネットワークも築かれています。長野県の「安曇野」は代表的なひとつで、毎年、志賀島と様々な連携企画を開催しておられます。日本の屋根、アルプス連山に抱かれた山の中で、海の神が祀られているという安曇野神社に、いつか足を運びたいと思っています。
志賀島の入り口にある志賀海(しかうみ)神社でまずはご参拝。古代からずっと宮司は阿曇家。海人の神、水と塩の神様。
まずは御潮井(お清め砂)。左→右→左とかけて清めます。砂というのが福岡流。あの山笠も、祭りのスタートは浜でのお汐井とり(清めの神事)からです。
こんもりした山に抱かれた神社へ登ってゆきます。
ここまでの長い参道にも宝篋印塔(ほうきょういんとう)や歩射祭の場や万葉歌碑など見所たくさん。境内には文化財も多い。神事のひとつ「山誉め祭」は、山を誉め、大漁を祈る。山があるから海があるという感謝。智恵とはこういうことだろう。
楼門。鬱蒼と茂る木々と眼下の青い海。しかも、海の中道をはさんだ外海の玄界灘と波静かな博多湾。海と山、どちらとも守り守られの暮らし。
御祭神は表・中・底のわたつみ三神。海の民に篤く信仰されている。神功皇后伝説が多く残る地でもある。ここでは絵馬でなく「絵魚」で願かけを。
拝殿へ。
拝殿の前にも御潮井。
はるか東を望む遥拝所。
神功皇后伝承が残る亀石。新羅遠征の折に阿曇磯良丸を通して安全を祈り、亀に助けられ無事に帰還したというお話。
国宝・金印の出土地。博多湾に面し、一直線の向こうには中国の洛陽、西安。江戸時代に地元の甚兵衛さんが見つけたという場所は、今は海の中。この横に、国宝・金印の実寸レプリカも展示されています。本物を観に、福岡市博物館へ、ぜひ。
志賀島の最奥、勝馬の地に、中津宮・沖津宮があります。中津宮は7世紀後半の古墳の上。勝馬を率いた海人集団の首長墓と思われる。
古墳頂上の社の横には、ささやかな遥拝所。地元の方が綺麗に手入れしておられる。ここから、沖津宮を拝むのだろう。
青い!透き通っている。中津宮から海側へ降りたら、こんな風景。ここはもう、玄界灘、外海である。右の小島が沖津宮。
沖津宮へは、干潮になると道が通じて歩いて渡れる。麓に鳥居が小さく見えているのがわかりますか?
さらに視線を右(=東)へ移すと画面右1/3ぐらいに相島が見える。平たい台形の島。積石塚がある。この辺りまでが阿曇族、その向こうはムナカタ族。
浅瀬では海藻を採る方があちこちに。ポイントごとに採れる海藻が違うのだそう。
志賀島のワカメは柔らかくて美味しいと、お土産にすると喜ばれます。
万葉集にも謡われた志賀の海人。海藻を刈ったり藻塩を焼いたりと忙しく、髪をすく櫛を手にすることもない、と。
阿曇族と古典芸能のコラボレーション。楽しみです。
潮見展望台から。海の中道の向こうに大都会福岡市のビル群や福岡タワー、大宰府へ続く水城まで見える。ここも福岡市です。
飛行機の窓から。福岡空港へ着陸前、海の中道を横切って降下中。海の中道に続く右奥が志賀島。