46件の結果中25〜36件を表示中
早吸日女神社 蛸断ち祈願
Japan 現地しっかりルポ

早吸日女(はやすひめ)神社―海人の守り神― Hayasuhime-Shrine, Oita-City

亀塚古墳、築山古墳からさらに岬へ向かうと、佐賀関という漁師町があります。

あの全国に名を馳せる、関あじ・関さばの漁の基地。目の前の豊後水道は、潮の流れが速く複雑で、そこで身をもまれた魚が、本当に美味しいのです!

この佐賀関に、古くより地元の信仰篤い早吸日女(はやすひめ)神社があります。

亀塚古墳、築山古墳に眠る海人族から、脈々と今に続く、海に生きる土地の氏神様は、小さな町なのにあまりに立派な神社で驚きます。

 

この名前、「早吸日女」は、
風土記にでてくる「速来津媛」からきているのでは?

 

「速来津媛」だとすれば、風土記の土蜘蛛(中央への抵抗勢力)のうちのひとつで、一族を守るための策をとったと思われます。この地を率いた女性首長は、悩み苦しみ、政治的決断を下したのだろうと、少しせつない思いにとらわれてしまいます。

神社御由緒には、「海」「海女」「女性」というキーワードが。

神話時代の、神武天皇東遷の折の逸話が由来とされています。
東遷の途中ここへ立ち寄られた折、黒砂(いさご)・真砂(まさご)の海女二神が海の底にもぐり、大蛸が守護する神剣をとりあげて奉献、神武天皇がその剣を当地に祀ったのが神社の始まりと。
その剣が、この早吸日女神社のご神体となっています。

今も地元の方は「蛸断ち祈願」で願をかけ、蛸の絵を奉納します。
ご神体の剣を大蛸が守っていたことからきている風習だそうです。

絵馬にも「大蛸」、拝殿の中には願掛けの「蛸の絵」。

 

それにしても、この神社は、広く、建築物も見ごたえがあります。

拝殿の屋根は、鬼と龍と波、龍宮城や浦島太郎まで登場し、いかにも勇壮華麗な海人の氏神さま。

建築物は江戸時代のもので、県や市指定有形文化財の貴重なものが多数あります。関ヶ原の戦いの折にこの地でも激戦があり、全焼しましたが、加藤清正公により再建されました。神楽殿は清正公が建てたものが現存しています。

また、小野宮司家は現存する江戸時代の社家住宅として貴重なもの、「祈祷所・潔斎の間・大名の間」が残されています。各地の大名の宿泊所にもなり、測量に歩いた伊能忠敬も宿泊しました。

 

立派であること、古い由緒ある建築物が残っていることも、素晴らしいのですが、

何より素晴らしいと思うのは、
手入れが行き届き、空間が生きていること。
地元の人たちが丁寧に大切に整えているのが伝わってくる気がするのです。

築山古墳のある八幡神社もそうでしたが、ここ早吸日女神社もそう。
漁をして、氏神さまの立派な神社を(負担も大変でしょうに)大切に守り、そして、守られている。

そう、お互い様。守り守られ、なのだと思います。

海と暮らす人の想いが伝わってきます。
自分にも誰にでも、当たり前だったはずの、地に足の着いたこういう暮らしに出会ったときに、うらやましいような思いがこみ上げるのです。

 

 

 

絵馬も蛸!
早吸日女神社の蛸の絵馬

拝殿の正面、青海波に龍。豪壮で華やか
早吸日女神社拝殿の屋根には龍が

浦島太郎や
早吸日女神社の屋根に浦島太郎

龍宮城も
早吸日女神社の屋根に竜宮城

 

神社入り口の鳥居は肥後の初代藩主、細川忠利の寄進
初代肥後藩主細川忠利が寄進した鳥居(早吸日女神社)

早吸日女神社石鳥居の解説

 

鳥居をくぐったら総門。希少は八脚門。
早吸日女神社の総門は八脚門

肥後藩主細川綱利により建立された早吸日女神社の八脚門

早吸日女神社総門の解説

 

総門をくぐって手を清め、さらに鳥居をくぐる
早吸日女神社の手水

くぐって右へ。拝殿、本殿に続く
拝殿、本殿へ続く広い境内

広い空と緑に抱かれた拝殿。広い境内の周りも見渡す限り空と木々。
早吸日女神社の拝殿

 

案内板によると、「屋根は当地方の瓦技法を伝え、棟鬼瓦の唐獅子、千鳥破風の獅子口、大棟瓦の虎に竹、唐破風(青海波)の鬼と龍と波、両端の浦島太郎に龍宮城と華麗な屋根となっている」
早吸日女神社拝殿の華麗な屋根瓦

早吸日女神社の唐破風の青海波

早吸日女神社の大棟瓦の「虎に竹」

 

 

拝殿内部には柱にも蛸の絵
拝殿内部にも蛸の絵

 

「蛸断ち祈願」。願いがたくさん
早吸日女神社拝殿内部には「蛸断ち祈願」がたくさん

「蛸断ち祈願」を奉納

 

拝殿右手から本殿の裏へまわる。手前が本殿、左奥の先ほど拝んだ拝殿から回ってきた。
本殿を裏側から

本殿と拝殿の解説

 

加藤清正公がたてた神楽殿が残る
早吸日女神社境内の神楽殿

加藤清正公が建てた神楽殿

早吸日女神社神楽殿の解説

 

お守りを頂こうと立ち寄ると、蛸の絵馬がありました。
お守りに混じって蛸の絵馬が

 

早吸日女神社の由緒と小野宮司社家のこと
早吸日女神社の由緒

早吸日女神社と小野宮宮司社家の解説

 

青い海が広がる。速吸瀬戸といって流れが複雑で速い難所。
豊後水道の眺め

佐賀関の漁師がこの海から関あじ関さばを届けます。海沿いの食堂にて
関あじ関さば関ぶり

 

 

= よろしければシェアして下さいね =
築山古墳のある神崎八幡神社の瓦
Japan 現地しっかりルポ

築山(つきやま)古墳―女性首長と朱― Tsukiyama-Old tomb, Oita-City

葬られた主が女性首長であること。
34㎏もの朱が使われていたこと。

なんと言ってもこの2点で忘れられなくなる古墳です。
全長90m、後円部45mと、大分県3番目の規模の前方後円墳です。

石棺や石室に朱で文様が描かれていただけでも、「すごいすごい」と古墳して見学しますのに、「34㎏の朱」とは一体どんな様子なのでしょう?説明によれば「バケツで汲むほど」と表現をされまして、発見時はさぞや注目を浴びたことと想像します。

最高位の贅沢葬です。

先に紹介した亀塚古墳とこの築山古墳はすぐ近くで、丹生(にう)川が別府湾にそそぐ高台にあります。「丹」が「生」まれる、という気になる名前。

そういえば、と連想したのが、国東半島の北にある宇佐神宮です。宇佐神宮は、奈良東大寺の大仏建立に大量の銅を送り支援しています。(田川の採銅所という地名の聖なる場所で銅を産出して、‥…という面白いテーマはまた改めて)

銅を奈良に送ったように、「あをによし=青丹よし」と詠われた(諸説ありますが)、青と赤で彩られた都の美しさは、この地域から「丹(に)」も送られて活躍したのか?、などと想像がひろがります。

 

 

この古墳の後円部には、亀塚古墳と同じく地元産の緑泥片岩の板を組み合わせた箱型石棺が2基。南石棺に3体、北石棺に1体が葬られており、南棺の中央、一番古い人骨が「海部の女王」とのこと。

 

ここで、豊後国風土記の「土蜘蛛」が気になります。中央の圧力に抵抗した、各地の在地首長が「土蜘蛛」として登場しますが、豊後国風土記にはそれが際立って多いのです。景行天皇が土蜘蛛たちを打ち負かしてゆく様と、現在、それと重なる場所に地形や地名や伝承が、とても興味深く、現地を見る目が変わります。(珍しく?、古事記と日本書紀でほぼ同じ内容)。

この物語の中で、女性首長と思われる人物がたくさん出てきます。当時はシャーマン的な首長が多かったとは言え、豊後は肥前国風土記と並び、突出して多い地域。出土品からもそれが伺えます。

ここ海部にも、海に潜り、海を渡り、活躍した女王がいた。
目の前の青くきらきら光る海と暮らしていたのです。

 

この古墳の発見は、神社の植樹の時に、氏子さんたちが鍬を入れて石棺を見つけたのがきっかけです。今も古墳は神社と一体で、石棺発見後は地元で「石棺さま」と信仰を集め、「石棺溝」が結ばれたり、毎年「石棺さま祭り」が行われたりしています。

石棺さまの覆い屋はきれいに掃除され、花が活けられています。
地元の方による案内板には「私たちの祖先が海と生きてきた」ことが書かれ、「私たちの父でもあり母でもある、神崎の海山を守りましょう」とありました。

 

出土品などは亀塚古墳公園内の資料館にて。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html

 

古墳のある神崎八幡神社は、海人らしく、波頭が勇壮に。
築山古墳のある神崎八幡神社の瓦

 

大分市の地図。別府湾を望む高台に県下最大の亀塚古墳、少し東に県下3番目の大きさの築山古墳。豊後水道は庭のようなもの。
大分市地図にみる大型古墳位置図

亀塚から岬へ向けて海沿いを少し走ると築山古墳。目の前は別府湾、正面は四国が見えそう。
築山古墳前の国道は岬へ

 

神社の鳥居の左手奥のこんもりした小山が築山古墳
築山古墳のある神崎八幡宮鳥居

 

海がまばゆい道から一歩入ると、鬱蒼とした古い森に囲まれ神社があり、裏手に築山古墳
築山古墳入口の標識

 

 

神崎八幡神社。地元の方に大切に整えられている。

神埼八幡神社の古い石垣

神埼八幡神社の参道

 

まずはご参拝を
神埼八幡神社

 

地続きの右手の小山が築山古墳

 

境内に面して案内板も。ここから登っていく。
境内にある築山古墳

築山古墳の解説

 

 

築山古墳の後円部、46m

 

後円部からみた前方部。全長90m。
築山古墳後円部から前方部をみる

 

境内にはパンフレットが貼られている。
築山古墳のパンフレット

 

 

 

後円部の頂上には、石棺を埋め戻して覆い屋を建てた。
南棺と北棺の覆い屋が隣接。

 

覆い屋周辺も地元の方に綺麗に掃除されている。
築山古墳後円部にある石棺の覆い屋

 

「石棺さま」。内部には埋め戻された石棺
信心あつい「石棺さま」

 

人骨が3体。中央の女性が海部の女王。昭和8年の図面
築山古墳の南石棺発掘見取り図

 

覆い屋にかけられた案内板。地域の方が祖先として大切にされているのが伝わる。
築山古墳の解説

 

 

毎年10月には「石棺さま祭り」
築山古墳の石棺さま祭り

 

 

神社の屋根瓦が独特の雰囲気です

 

 

波頭。海人の氏神様らしい装い。小さな神社なのに勇壮な趣。
波がしらの勇壮な屋根瓦

 

築山古墳のある神崎八幡神社の瓦

 

ここからは、
海部古墳資料館の展示パネルより
築山古墳パネル(海部古墳資料館)

 

南石棺の模式図(海部古墳資料館)

 

築山古墳の南石棺出土遺物(海部古墳資料館)

 

女性首長と畿内政権(海部古墳資料館)

 

 

 

= よろしければシェアして下さいね =
亀塚古墳の全貌
Japan 現地しっかりルポ

亀塚古墳・海部古墳資料館 Kamezuka-Old tomb, Oita-City

「此の郡(こおり)の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部(あまべ)の郡という。」

豊後国風土記に記された一文です。
豊後国は日田・玖珠・直入・大野・海部・大分・速見・国埼の8つの郡から成り、海部(あまべ)郡はそのひとつ。

豊後水道に面し、関アジ関サバで知られる、海の幸に恵まれた土地です。

突端の岬から四国の西端との距離はわずか31㎞。
フェリーで70分。
今も毎日16便が往来する交通の要所です。

そんな立地ですから、海人族が多く住んだ古代の海部郡は、航行を司る拠点でした。

別府湾沿岸に築かれた前方後円墳10基のうち、この亀塚古墳は、大分県最大の巨大古墳です。

全長116m、後円部62m、墳丘は3段築成。
テラスには円筒形・朝顔形・船形・家形・盾形という様々な形象埴輪がずらりとめぐらされました。

特徴的なのは、白い石英質の葺石です。

想像してみてください。
瀬戸内海を抜けてきた目に飛び込む、はるか高台にそびえる美しく威厳ある姿。白く輝く堂々たる姿の周囲には、赤い埴輪がぐるりと囲んでいる。

紺碧の海の中で浮かび上がるその威風堂々たる姿は、海部を支配した大首長の力をうかがうにふさわしい古墳です。

今、現地へ見学にいくと、一帯が公園として整備され、「海部資料館」に海部郡や大分全域の出土品や資料展示がありとても面白く過ごせます。

いかにも海人族らしい、船やスイジガイが刻まれた埴輪は必見。
赤色顔料がほどこされた石棺も地域色として興味をひくきポイントです。

亀塚古墳の横にある小さな高まり、小亀塚古墳も面白い。

古墳時代中期には、国東半島の北へ古墳の築造が移っていくのですが、海部勢力が弱まっていった時期を証明する貴重な古墳です。絶大な力を誇った亀塚古墳の被葬者と、その力を他所にゆずり消えてゆく時代の小亀塚古墳の被葬者。2つ並んだ古墳に、2人の人生を、想ってしまいます。

「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html

 

 

116mを越える巨大前方後円墳。3段築成のテラスには、様々な形の形象埴輪がずらりとめぐる。
亀塚古墳をぐるりと囲む円筒埴輪

 

墳丘部へ登る。古墳の大きさが伝わりますでしょうか。
前方部から後円部を望む

 

造り出しも設けられています。
亀塚古墳 3段築成と造り出し

 

大きい!規模に圧倒されます。公園として整備されています。
亀塚古墳の全貌

 

豊後水道の出入口、四国の突端と手が届きそうば立地。まっすぐ陸を西へ抜けると有明海に至る、交通の要所。豊後水道の出入り口、重要な位置

 

亀塚古墳公園の案内図。亀塚古墳、小亀塚古墳、海部古墳資料館が一体となっています。
亀塚古墳公園 全体map

 

古墳の墳丘頂上より。四国の陸が見えます。
亀塚古墳頂上から四国方面を望む

 

亀塚古墳の案内板。
亀塚古墳の現地解説

 

 

亀塚古墳の整備前全景

 

亀塚古墳の船形埴輪

 

 

 

 

後円部には2ヶ所の埋葬主体部。
亀塚古墳前方部の竪穴石室

 

地元産の緑泥片岩を使った「海部の石棺」と言われるもの。板石を組み合わせた箱型石棺。
墓壙に直接おさめる直葬方式

 

中には朱が塗られ、副葬品のスペースが区切られている。
石棺内部や構造がわかる

 

主体部の出土状況。案内板より。
亀塚古墳の主体部解説

 

 

 

巨大な前方後円墳のすぐ横には、小さな古墳。小亀塚古墳は、海部の首長が勢力を失っていく時期を示す貴重な古墳。
小亀塚古墳

 

小亀塚古墳の解説

 

隣接の海部古墳資料館
海部古墳資料館

海部 あまべ 古墳資料館

 

 

いま立っているエリアの当時の情景
亀塚古墳の当時の再現情景の解説パネル

 

竪穴式石室を造らず、墓壙を掘って直接おさめる直葬方法が海部地域の特徴。
石棺をおさめる直葬の図解

 

海部の主要古墳。このエリアに県下最大の亀塚古墳、それに次ぐ築山古墳、臼塚古墳が。いずれも主要ルートの出入り口を抑えている。
海部の主要古墳 解説パネル

 

豊後国風土記の一文、「此の郡の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部の郡という。」

 

亀塚古墳。大分県最大の前方後円墳。
亀塚古墳 解説

 

埴輪に刻まれた「船」(亀塚古墳)
亀塚古墳の船を描いた埴輪

 

「船」の部分。船から延びる櫂?
船を描いた埴輪の破片

 

埴輪に刻まれた「スイジガイ」。
スイジガイと埴輪片を並べた解説

 

スイジガイの文様
スイジガイ文様の埴輪の破片

 

スイジガイの文様

 

スイジガイのぎざぎざの縁がくっきり。

 

海部王にふさわしい副葬品(しかし調査時にはすでに破壊されていた)
勾玉やガラス玉などの副葬品

 

1号主体部からは滑石製曲玉もこんなに。
滑石製曲玉

 

豊後水道という重要な交通路に面し、海と生きた民だった
豊後水道の眺め

 

 

 

= よろしければシェアして下さいね =
別府湾を一望
Japan 現地しっかりルポ

別府湾の大型古墳(全6話) Beppu, Big old tomb

温泉地「別府」。血の池地獄や坊主地獄などユニークな地獄が数多く、眼下の別府湾のあちら側には猿山・高崎山が、こちら側には六郷満山・国東半島が見える観光地です。

でも、この別府湾沿岸は大型古墳が集中するエリアでもあり、それがあまり知られていないのがとても残念。

地図をご覧になってみてください。地勢からみて面白くないわけがない。古代の歴史の宝庫です。

古代の営みを見るときに、大事なのは川。
ここでは阿蘇から悠々と流れきて別府湾へ注ぐ、大野川が歴史を育みました。

ところで、

九州島の、大分と反対の西側は有明海に面します。大河・筑後川が有明海に注ぐ出口に、家具で有名な大川という町がありますが、その辺りを車で走っていると標識に「竹田」と出てきて驚くことがあります。

遠すぎるし、なぜここで、あの山の奥の竹田?

現代の道や行政区画に慣れているとピンときませんが、竹田は阿蘇山の麓、九州のへそに位置し、古代から交通の結節点でした。

有明海から阿蘇→竹田、そして竹田から大野川に沿って別府湾へと至ります。そこから海路で瀬戸内を経て近畿へ。

古代の幹線だったと理解できますね。標識の「→竹田」は名残でもあり、今も生きているルートなのです。

この重要なルート上には、筑紫君磐井が豊後へ落ち延びた話、景行天皇巡行の行宮、風土記の「鼠」たち(抵抗した在地豪族)などなど、古代の多くの伝承が残っています。各地で女性首長が一族を率いて活躍するのもこのエリア。

別府湾の前方後円墳は、海人たちを思わせる出土品ばかり。
ヤマトに必要とされた、海と生きている地元豪族の姿が想像されます。

古墳の時代変遷をみると、国東半島の南の別府湾から、北の周防灘沿岸に移っていくのも興味深い。ヤマトは、朝鮮半島との往来のために、より北に、海人の拠点が必要になったのでしょうか。

別府湾エリアの、亀塚古墳、築山古墳、臼塚古墳、それと意味深でユニークな古宮古墳を1本ずつ書いてゆきます。

 

【写真コーナー】——————–

大分高速道の別府湾SAからの景色。左は国東半島。右手に目的の古墳があるエリアが続き、湾の向こうにはすぐそこに四国。パノラママップと照らしてみて下さい。
別府湾を一望

別府湾パノラママップ

 

 

ヤマトから瀬戸内の主要大型古墳。瀬戸内の出入り口として国東半島の南の別府湾、北の行橋・苅田の位置的重要性がわかる。
(海部古墳資料館の展示より)
瀬戸内海の主要大型古墳分布図 パネル

 

別府湾エリアの主要古墳
海部の主要古墳 パネル

 

亀塚古墳。大分県最大の前方後円墳。葺石に白い石英質の石が用いられ、海から見たときに、白い堂々たる姿が光り輝いたはず
亀塚古墳 解説パネル

 

築山古墳。亀塚に注ぐ大きさ。女性首長の墓。石棺の中には朱が多量に!
築山古墳 解説パネル

 

臼塚古墳。海人を示す耳骨腫の頭骨が出たのもここ。石人は八女の石人石馬との関係が気になる。有名な臼杵磨崖仏の近く
臼塚古墳 解説パネル

 

3段の上から順に、福岡東部~宇佐エリア、国東~別府湾エリア、下は他のエリアの大型古墳(宮崎の生目・西都原、八女の岩戸山など)。
1番上の段で苅田の石塚山が最初に現れたあと、2番目の段の宇佐から別府湾に集中して築かれ、その後それが北部(1番上の段)へ移っていったのがわかる
東九州の古墳の移りかわり パネル

 

宇佐、国東、別府湾から大野川流域。大型古墳が終焉を迎えたのち、最後の時期に築かれた古宮古墳は注目すべき古墳。これもご紹介します
豊後地方の古墳の移りかわり

 

大型の前方後円墳、亀塚、築山、臼塚をご紹介します

 

最後の時期、古宮古墳は、ヤマトとのつながりを語る。九州唯一の刳り抜き型の石棺式石室
古宮古墳の築造時期 解説パネル

 

亀塚古墳
別府湾を代表する大型前方後円墳「亀塚古墳」

 

亀塚古墳の船が書かれた埴輪
亀塚古墳 船形埴輪

 

亀塚古墳のスイジガイ文様の埴輪
亀塚古墳 スイジガイ文様

 

築山古墳
築山古墳

 

築山古墳。石棺には女性
築山古墳パンフレット

 

築山古墳。石棺には3体の人骨
築山古墳 南石棺内部の発掘見取り図

 

岬の突端、早吸日女(はやすひめ)神社。今も海人の神
早吸日女神社

 

竜宮城や、
早吸日女神社の屋根瓦に竜宮城

 

浦島太郎も。
早吸日女神社の屋根瓦に浦島太郎

 

臼塚古墳の石棺
臼塚古墳の石棺

 

臼塚古墳の鎧をつけた石人
臼塚古墳の石人2体

 

古宮古墳の案内板
古宮古墳の解説

 

古宮古墳。刳り貫き型の石棺式石室。
これら古墳を、一ヶ所ずつご紹介してゆきます
刳り抜き型の石棺式石室の様子(古宮古墳)

 

 

= よろしければシェアして下さいね =
五郎山古墳の装飾
Japan 現地しっかりルポ

五郎山古墳。ポップでプリミティブ。古代人の美意識と子供たちは交信する

北欧のクリエイターのポップな絵。
そう言われても違和感のない魅力的なこの絵は、古代人が顔料から色を採り、岩に直接描いたものです。

プリミティブな魅力があるこの絵が発信する、目に見えない何かは、私たち大人よりも子供のほうがわかるのでしょう。小学生、中学生が、好きな絵の前でじっと見入っている姿を後ろから見ていると、何やら交信を始めているように思えます。幼い子供が動物や鳥と気持ちを通わせている、あの姿と同じ。

観世音寺で、居並ぶ丈六仏を前にした時。
金隈遺跡で、甕棺に眠る弥生の人骨を前にした時。
子供は本物から何かを感じ取る能力があるのだなと感心しましたが、ここの絵の前でも同じことを感じさせてくれます。

ここ五郎山古墳は、墓に眠る主への祈りを込めた様々な絵が奥壁に描かれた装飾古墳です。

馬にまたがった人。
祈りをささげる人。
弓を引く人。
魂を運ぶ船。

その表現は、手が巨大に描かれたり、背中に背負う靭が人物の何倍もの大きさに描かれたりと、幼児のお絵かきと通じる力強さがあり、当時の職人さんの心情が伝わってきます。

五郎山古墳がある丘陵の麓に、古墳を解説するための古墳館があり、ここで驚くような冒険ができます。一つ一つの石や壁画まで、すべてが実物大、すべてが同じ造りの石室レプリカがあるのです。

羨道(=奥へ続く通路にあたる)も実物そのままの大きさですので、かがんで、あるいは這って、奥の玄室へ進みます。

ここに、秘密が!

どなたでも見学できるようにと、この狭い羨道が「開けごま」でウィーンと、石の壁が左右に開く仕掛けとなっているのです。腰が悪くても膝が痛くても車いすでも大丈夫。全国唯一、こんなものを創ってしまった五郎山古墳館、素晴らしいです。

裏手の本物の古墳では、ガラス越しに本物の石室を見学できます。ただし事前申請が必要。

JRの原田(はるだ)駅から徒歩圏の、住宅街の中。こんな場所で、こんな体験ができるなんて!
ここは「筑前」「筑後」「肥前」の三国国境だった場所。古くからこの地の産土神である筑紫神社は、歴史に様々に登場します。やはり古代から交通の要衝であり、有力豪族が抑えたい良い立地なのです。

九州の装飾古墳をくまなく研究され誰より詳しいお一人で、この「開けゴマ」を発案された石山勲氏には、毎年1回、九州の装飾古墳をめぐるシリーズをご案内いただいています。マグライト必携!

五郎山古墳と古墳館は大規模施設ではありませんが、行きやすく分かりやすく、楽しさも、重要な遺跡ということも、すべてがそろった場所です。装飾古墳にご興味ある方、初心者の方や親子でお出かけの方が訪れるにも、大変おすすめです。

 


装飾古墳王国・九州の、
五郎山古墳/五郎山古墳館(福岡県筑紫野市)

*古墳館の石室レプリカは開館中いつでも体験可能
*実物の古墳見学は事前に館へ申請して開錠いただく必要があります。詳細は館へご確認ください

 

【写真コーナー】——————–

玄室奥壁の絵。館内の実物大の石室レプリカへ入ってゆけます。石室内の石の組み方、天井の高さなど、その場に立たなければわからないことが、たくさんたくさん。船は準構造船だとか、馬じゃなくて猪だとか、祈りは巫女か?とか、絵を前に話題がつきません。持ち送りの石の積み方も上下部分の違いなど解説を聞いて眺めると、古代の知恵に唸ります。
人物 馬 動物 船 靱

レプリカ石室の入り口。カンテラを手に羨道をくぐってゆきます
五郎山古墳館には実物大レプリカ

ギリギリしゃがんで歩ける高さ。膝をついて進むもよし。
羨道を進んで玄室へ

大人も這って進む

玄室に着いた。本当に真っ暗
たどり着く玄室は真っ暗

石室は闇。当たり前と言えば当たり前だなと。
手にしたカンテラの灯だけ

照らすと浮かび上がる絵。おお、と感動の声
ライトで壁面の絵を

玄室内の電気をつけていただきました

今くぐってきた羨道を、入り口側から見たところ。「開けごま」で羨道部分が左右に開いたのがわかりますか? 車いすでも入ってゆけます
羨道部分は電動で開くので車いすでも入れる

石室内は天井が高くかなり広いのがわかります
玄室を見学する人たち

館内展示より解説パネル。
壁画をCGで復元したものが並んでいます

騎馬人物の解説パネル

人物の解説パネル

 

盾を持つ騎馬人物の解説パネル

 

靱の解説パネル

槍か矢が刺さった猪の解説パネル

 

魂を運ぶ船の解説パネル

 

館でしっかり予習して、裏手の丘の上にある本物の古墳へ。公園になっています
裏の丘を登り古墳へ

坂道でちょっとはあはあしますね。「五郎山古墳」の道しるべ
「五郎山古墳」の道しるべ

円墳にたどりつきました
五郎山古墳の全景

丘にあがると展望が開け、結構高さがあるとわかります。三国国境である交通の要衝を一望できる、古代豪族にとっていい場所だったのがわかります
古墳のある高台は平野を一望

予習してきたとおり、壁画をしっかり思い出して、
五郎山古墳の解説板

古墳の解説がしっかりあります
五郎山古墳の模型と解説

周溝もありました。
五郎山古墳平面図

目の前のこの円墳を、

断面で見れる。わかりやすーい!の声。
五郎山古墳の石室断面

館内のレプリカで入っていったのはこの石室。羨道を、つきあたりの玄室まで這って行きました。この羨道部分が「開けごま」で開くしくみでした。
石室構造と見学室内がわかりやすい

そして今から、本物を見学します。もちろん担当の方に従い、ガラス越しに。どきどき。
五郎山古墳墳丘断面図

内部は写真はありません。ぜひ足を運んで実際にご覧ください。

実物を前にすると解説も頭にはいります
五郎山古墳の形

五郎山古墳の築造方法

 

以下は館内の解説パネル。
発見当時の五郎山古墳。土地の所有者により発見された。
五郎山古墳の発見

発見当時の小林行雄先生の貴重な記録。
第1回調査と史跡指定

トレンチ調査の様子。
調査風景の写真

石室のかたち。
石室のかたち

以下3点は筑紫野市より。
五郎山古墳とふもとの五郎山古墳館、空撮。
五郎山古墳の空撮

館内の展示。ここに石室レプリカがあります。
五郎山古墳館の館内展示

五郎山古墳館の石室レプリカ内部。
五郎山古墳の石室内写真

 

= よろしければシェアして下さいね =
線路一本が川を渡る
Japan 現地しっかりルポ

くま川鉄道で免田式土器のふるさとへ。なんて美しい土地なんだろう

大村横穴群を観たあとは、とっても楽しいレトロ旅。ゆっくりと列車で走り、車窓から風景を楽しみ、風や光を感じてゆく。現地が何かを語ってくれますよね。景色に溶け込んでゆく感覚がありますよね。

1989(平成元)年に人吉駅から東側、湯前駅までが、JR九州から第3セクター「くま川鉄道」に移管されました。それで同じ駅の中に、JR九州の「人吉駅」とくま川鉄道の「人吉温泉駅」が混在します。もともとは1つの駅。

大村横穴群は「人吉駅」「人吉温泉駅」と隣接しています。駅の構内にもプラットフォームにも大村横穴群の案内板があり、くま川鉄道に乗ろうとプラットホームに立つと目の前に横穴が広がっているという驚愕の立地、そして贅沢さ。

ここを出発して人吉盆地を東西に走る「くま川鉄道 湯前線」は、心洗われる絶景を楽しめます。観光列車「田園シンフォニー」は機会があればぜひ体験してほしい列車。高校の下校時間と重なると満員になる、というのも微笑ましいです。

人吉名物の駅弁を買って乗り込みましょう。駅前に店舗あり。

ちなみに「JR人吉駅」側には、全国でも数えるほどになった駅弁の立ち売りで菖蒲さんが今も活躍中。立ち売り一筋50年!
こちらは→ 2019年の『サライ』(小学館)の記事です。

くま川鉄道の沿線では、橋梁やアーチ橋や駅待合所やプラットホームなど、全19ヶ所が登録有形文化財に指定されています。こんな路線を旅できるのはもはや贅沢。にわか”乗りテツ”になってしまうこと請け合いです!

人吉・球磨エリアは球磨焼酎のふるさと。今も小さな蔵が驚くほどたくさん現役です。蔵ごとに少量ずつ、本当に個性的な焼酎を醸します。広大な盆地ときれいな水があればこそ。私たちは、そこで栄えた古代文化を求めて、あさぎり町を目指します。

狗奴国の比定地のひとつともされ、あの優美な免田式土器のふるさとです。鎏金獣帯鏡(りゅうきんじゅうたいきょう)や方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の破鏡を出土した土地です。すごい。

句奴国や免田式土器はまた別の機会にレポートをと思います。

 

【写真コーナー】——————–

列車の窓から大村横穴群を望む。窓に「春」マーク

「人吉温泉駅」プラットホームにも横穴群の案内板が。ここから遠目に横穴群が見学できるとはすばらしい
プラットホームからの大村横穴群の眺め

プラットフォームにある案内板

JR九州とくま川鉄道で駅舎共用。JR九州では人吉~八代間でSL乗車もできます(特定日)。大村横穴群がすべての案内に載っています。駅と一体ですね
人吉駅の構内案内看板

くま川鉄道「田園シンフォニー」春バージョン
田園シンフォニー春

DEN-EN SYMPHONY

 

「田園シンフォニー」冬バージョン
田園シンフォニー冬

田園シンフォニー冬

 

観光列車「田園シンフォニー」。季節ごとに列車が変わります。春・夏・秋・冬と、5つ目がある!「白秋」ですと!深い。渋い!
田園シンフォニーパネルには5種類の列車

田園シンフォニーは春夏秋冬と白秋

 

沿線には国の登録有形文化財が19か所も
くま川鉄道有形文化財

人吉駅の正面。名城・人吉城を模した歴史を感じさせる建物です。鎌倉時代に始まる相良氏が治めた数々の歴史をたたえた街です
JR人吉駅

待合室もレトロで良い雰囲気
JR人吉駅のレトロな構内

「人吉温泉」駅。ローカル線の旅へ
くま川鉄道 人吉温泉駅のホーム

JR人吉駅ホームを上から眺める

 

人吉駅前、マンホールのフタは球磨川下り
人吉市マンホールのふた 急流下り

球磨地方の郷土玩具「きじ馬」も
球磨地方の郷土玩具「きじ馬」

駅弁立ち売りの菖蒲さんが全国的にも有名なJR人吉駅。栗めし、鮎ずし、と魅惑的。駅前の「やまぐち」さんで購入できます
「汽車弁当」人吉駅弁

栗めし 鮎ずし 栗おこわ

 

名物「栗めし」。ワクワク
栗めし弁当の包み

栗をあけたら、どどーんと栗。大変美味しゅうございました
栗めし弁当の栗型容器

栗めし弁当 大きな栗がごろごろ

 

田園シンフォニー、列車にはいろいろなコーナーがあり楽しい。展示品も楽しめます
田園シンフォニー素敵な車内

おしゃべりしたり、外を眺めたり
田園シンフォニーにはカウンター席も

木目とファブリックの内装

おしゃれなランプと、大村横穴群
テーブルにはランプ

 

列車先頭に立てば、線路も、鉄橋も、広大な景色も、わがものに!
最前部に立つ

おかどめ幸福駅まで行って、あさぎりをめぐります。その隣駅は、名前も「東免田」!
列車内の路線図駅名

 

至福の列車たび
雄大な景色の中を単線が走る

線路一本が川を渡る

駅舎や鉄橋など有形文化財がたくさん

到着。無人駅です
無人駅の「おかどめ幸福駅」

おかどめ幸福駅。注連縄もかかり、ありがたや。幸福になれそうです
おかどめ幸福駅

おかどめ幸福駅の駅舎

才園(さいぞん)古墳へ行ったり…、
才園古墳

本目(もとめ)遺跡へ行ったり…、
本目遺跡の解説

鎏金獣帯鏡(りゅうきんじゅうたいきょう)。すごすぎる。
資料館の展示資料より
鎏金獣帯鏡の解説

免田式土器。繊細な姿。球磨川流域の古代人はこんなに美的センスあふれて。
資料館展示より
免田式土器(あさぎり町展示)

隼人、熊襲、のお話をたくさんお聴きできました。
球磨川流域に華開いた文化の繊細かつ優美なこと。熊襲=野蛮などというのは、ほんとにとんでもない誤解です
熊襲隼人の関係資料

広大な盆地、どこまでも平らな良質の土地。遠くの山並みはぐるりと美しく、球磨川の水も、食べ物も豊か。ここに王国が栄えたのは、現地に立てば一瞬でわかる。今も豊かな恵みで、球磨焼酎が創られ続けているわけも。
あさぎり町は広大な盆地

 

= よろしければシェアして下さいね =
大村横穴7号墓 馬と馬鐸
Japan 現地しっかりルポ

大村横穴群。岩肌の装飾を双眼鏡で探していると時間を忘れて無の境地

色鮮やかばかりが装飾じゃない。

「線刻」の面白さにもノックアウトされます。「線刻」とは言葉のとおり、横穴墓の入り口や石室内部の壁や石棺などを、彫刻で飾ったものです。色で絵を描くのでなく、彫刻芸術を刻むのです。

肥後の装飾古墳には線刻も多いのが魅力です。目を凝らして岩面に浮き上がる絵を探す楽しみは、なぜか深みに引きずり込まれる魔力があるように感じます。

気づくと、見学のメンバーが一丸となって、
双眼鏡を手に、
あるいはマグライトを手に、
半分はいずるようにしながら、

「あ、わかった!」
「どれが!?」
「あのヘコミの右斜め上」
「あ、あれね!」

と、同じものをみているやら実はわからないうちにも、一体感が醸し出されてきます。‥‥たのしい。

大村横穴群には、武具や幾何学文様が描かれています。武人の大切な道具だった、靭(ゆき)・鞆(とも)・矢・刀子のほか、親子に見える馬や馬鐸も見えます。馬がいかに大切な存在だったかが伝わります。

仔馬の姿がかわいい。1400年前の人が、この絵を刻んだのです。どんな気持ちでこのかわいい姿を残したのでしょう。

横穴墓群がずらりと崖に並ぶこうした場所は、人里離れた山奥だろうとイメージする方もいらっしゃるかもしれません。そんなことはなく、古代のお宝は意外と身近な場所に在ります。

この大村横穴群は、JR人吉駅と道を挟んだ向かい側。プラットフォームに立つと目の前に広がっていますし、ホームに解説まであります。

人吉の盆地の美しさ。
JRの蒸気機関車や
くま川鉄道が走るのどかな風景。
豊かさの源、球磨川の急流や渓谷。

古代に文化が栄えるのはこういう場所なのだと、体で理解できます。くま川鉄道の鉄橋は文化財の連続で、かわいい列車「田園シンフォニー」も駅弁も特筆ものです!

人はいつの時代も、豊かな良い場所に住みたいのです。幾重にも暮らしを重ね続けているのですね。だから遺跡は、誰にとってもすぐ近くに、先人の暮らしの跡として在るはず、です。

 


装飾古墳王国・九州の、
大村横穴群(熊本県人吉市)

大正時代に国史跡(=史跡の重要文化財)に指定され、早くから注目されていた遺跡です。6~7世紀の古墳、800mにわたり27基の横穴が連なります。

*現地では立ち入り禁止エリアもあり、足元もあぶない箇所があります。くれぐれも無理は禁物、ご注意ください

 

【写真コーナー】——————–

大村横穴群全景。道路を挟んでこちら側はJRとくまがわ鉄道の人吉駅
大村横穴群の全景

現地の案内板を見ながら、図柄を探す楽しみ。これは11号
大村11号横穴墓の解説

武人が身に着けた大切なものばかり。靭(ゆぎ)=矢筒、鞆(とも)=弓を射る時に手の甲を保護、弓、刀子

11号横穴墓。解説図のとおり絵がみえる
大村11号横穴墓

11号横穴墓。入口左側の靭(ゆき)や円文
11号横穴の靱と円文

11号横穴墓。入口右側の靭(ゆき)
入口右壁の靱 11号横穴墓

7号横穴墓の解説。三角文で入口を飾り、左手には馬や馬鐸
大村7号横穴墓の解説

大村7号横穴墓の装飾図

 

7号横穴墓。三角文がみえる。左手の馬はこの角度ではみえない
大村7号横穴墓の入口

7号横穴墓。入口を飾る三角文と右手の靭(ゆき)・弓
大村7号横穴墓 三角文と靱

7号横穴墓。角度を変えて右方角からみると馬が見える!
大村7号横穴墓の側面の装飾

7号横穴墓。入口左手のアップ。上に馬が3頭、下に馬が2頭。小さな仔馬も目視できた!その左に馬鐸が。
立ち入れないのでかなり遠くからかなり小さな馬をみました。これを1400年前に刻んでいる姿を想像する。たのしい。馬は大事な家族だったんですよね。
馬と馬鐸

崖面に横穴が続く。丘陵を散策すると別のポイントにも横穴が
大村横穴墓群の全景

大村古墳群はJR人吉駅&くま川鉄道人吉温泉駅の裏手に見えている低い丘陵です。人吉駅は国史跡「人吉城」を模したレトロな駅舎。広場には天守閣のからくり時計があります。駅の正面から駅舎内をわたって向こうの横穴群へ行ってみます。
人吉駅

なつかしい風景を見ながら線路を越える
くま川鉄道の人吉温泉駅

駅舎の通路にもこんな案内板。韓国語もありますね

構内にも大村横穴群の解説がある
プラットホームに設置された大村横穴群の解説

駅の裏側に見えてきました。ワクワク
線路を越える通路

降りるとそこは国史跡・大村横穴群。本当に駅の真ん前!
通路を降りると目の前に横穴群

双眼鏡は必携です。同行の方に貸して頂き感謝。仔馬が手に取るように見えました。遺跡見学では近づけないことも多いので、七つ道具のひとつに双眼鏡はぜひ。解説も充実していて、遠い壁面の装飾をさがすのにとてもわかりやすく親切です。

 

 

 

= よろしければシェアして下さいね =
石貫穴観音横穴
Japan 現地しっかりルポ

石貫穴観音・ナギノ横穴墓群。装飾は地中深くとは限らないのだ

死者が装飾品を身につけるように、墓も装飾をまといます。色鮮やかに壁面が彩られたり、石棺の屋根や石室に絵や文様が刻まれたり。

それは閉ざされた闇の中で主の眠りとともにある、というイメージがありますが、そうでないものもあります。装飾は、地中に閉ざされた石室の中だけではありません。

この横穴墓の前に立つと、今まで見たことない、

異形の迫力と、
ダイナミックな造形美と、
岩の堂々とした質感に、
ガツンとショックを受けます。

吠えるような“パワー”を感じます。

石貫穴観音横穴と石貫ナギノ横穴は、同じ丘陵地帯の離れた場所にあり、前者は5基、後者は48基の横穴が掘られています(現時点の数)。

墓を創った人々は、首長が眠るその入り口を、幾層にも岩を刻み華やかな彫刻芸術として飾りました。

九州には横穴墓が多いのですが、こんなに凝った装飾は他に類をみません。

さらに驚くのは、

1400年も風雨や日光にさらされて、今もなお、

当時の「赤」

が岩肌にはっきり残り眼福を与えてくれること。1400年です。信じられないことです。

実測図や先生の解説を通してじーっと見ていると、消えかけている部分も目に映って、ここに赤い絵を描きつけた当時の職人さんが乗り移ってくるようです。ここに立って、岩肌をにらみ、赤い顔料を手に…。

この絵が、我が長(オサ)の墓の守護となり、悪霊を退散させるために。あるいは長の魂がでてこないよう封じ込めるために。

大事な役目を背負って、一心に岩に向かっていたのだろうなと。

石貫穴観音横穴、石貫ナギノ横穴は、内部の造りも独創的で豪華。決して広くない穴の奥に、遺体を覆う石屋形がしつらえてあったり、脇の屍床も彫刻された石板に囲まれていたり。石屋形にはなんと丸瓦まで彫刻されているし、家の形の屋根もある。そこに眠る人にあわせ、職人さんが腕を振るったのだろうな。

そして、何より胸に迫ること。
今なお集落の方たちの信仰の対象で、観音さまを拝み花が飾られ掃除が行き届いている様子に、ご先祖様の墓として地域の人に大切に守られているのが伝わってくるのです。こういう場所は、立てばわかりますが、地勢的にも本当にいい場所で、何か温かなものが感じられるのですよね。

九州には各地に横穴群が多くありますが、それぞれに地域の独自性があることが、楽しいし、当時の背景を想像させてくれます。

思えば、葬送儀礼というのは、自分たちのアイデンティティーを表し、伝える、大事な事柄のひとつ。今を生きている私たちもそうであるように、地域性があるのは当たり前かもしれません。

お墓って大切なものが凝縮されている。
遺跡の前で改めてそんなことを感じています。

 


装飾古墳王国・九州の、
石貫穴観音横穴墓・石貫ナギノ横穴群(熊本県玉名市)

*石貫穴観音横穴群・石貫ナギノ横穴群は、いずれも国指定史跡。大正時代に横穴・装飾古墳として第1期の指定をうけ、存在を広く知られることになった、記念碑的な史跡です。
*現地では立ち入り禁止エリアもあり、足元もあぶない箇所があります。くれぐれも無理は禁物、ご注意ください
*実測図は、熊本県教育委員会『熊本県装飾古墳総合調査報告書』1984 からお借りしました

 

【写真コーナー】—————-

石貫穴観音横穴。三重彫刻に赤。豪華!
石貫穴観音横穴2号墳の正面

肉眼でも赤い円文がはっきりと
石貫穴観音横穴2号墳入口の赤い顔料

入り口をぐるりと装飾が
入口に赤でぐるりと装飾

案内板で全体図と文様をよーく見て、いざ現場
石貫穴観音横穴の案内板

今も集落の観音様。階段を登ると、
横穴へ登る階段

奥の観音さまに手を合わせ、

正面奥のこんな横穴群へ
横穴が並ぶ様子

内部。大事な信仰の場所
横穴内部には3体の屍床

正面と両脇、3つの屍床(ししょう)部。瓦付きの屋根まで!
石屋形の屋根に瓦も

両脇の屍床(ししょう)、船を刻んだように見えるのは気のせい?

こんな風に張り付いて見学。くれぐれも落下にご注意を
横穴が並ぶ崖面

石貫穴観音へのアプローチ。あの丘の斜面に横穴が並ぶ
石貫穴観音横穴群の並ぶ丘の遠景

周囲はのどかで美しい場所。有明海へ出る交通の要衝に位置する
周囲の風景

400m離れた場所に石貫ナギノ横穴群
石貫ナギノ横穴群の案内板

250mも累々と。現在48基。まだ出てくるかも
石貫ナギノ横穴群が250mにわたり並ぶ様子

赤い装飾がくっきりと
石貫ナギノ横穴の中でも立派な装飾

「お家(おうち)」と表現したくなる。周囲が崩落しており、横穴最奥の屍床(ししょう)だったところが露出している。ここで眠っていたのですね。
横穴が崩れ奥壁の石屋形がむき出し

 

以下の実測図、原本はすべて、
熊本県教育委員会『熊本県装飾古墳総合調査報告書』より。
現地を見るのにとても分かりやすいです

石貫穴観音1号横穴墓実測図

 

 

石貫穴観音2号横穴墓実測図

 

石貫ナギノ6号横穴墓実測図

 

 

石貫ナギノ8号横穴墓実測図

 

 

石貫ナギノ9号横穴墓実測図

 

 

 

 

 

 

= よろしければシェアして下さいね =
チブサン古墳
Japan 現地しっかりルポ

チブサン古墳は熊本が誇る装飾古墳。本物と対面できる幸せ。オーラが違う

日本に「古墳」はどれぐらいあるのでしょう?
およそ20万基とのこと。
うち装飾古墳は660基です。
つまり、全体の0.3%、
1,000に3つの希少なものです。

九州には日本の装飾古墳の6割があり、
熊本県の菊池川流域と、
福岡県の遠賀川流域と、
筑後川流域に集中しています。
中でも熊本県は200基弱と、ひときわ多い地域です。
200というと全国660基の約3分の1もが熊本県に!?

その中で特に、大変大変有名なのが、チブサン古墳。日本を代表する装飾古墳です。この顔は見たことある、という方も多いのではないでしょうか。

絵が意味する事は未だわかりません。

乳房なのか目なのか。
宇宙人とUFOなのか。
墓の主と銅鏡なのか。

いやいや、
必死に考える私たちを見て古代人は、
宇宙はもっと深淵なのさと、
笑っているかもしれません。
想像はどこまでも広げてみたいですね。

赤・黒・白の絵は華やか、かつユーモラス。
乳房に見えることから「チブサン」と言われるようになったとのこと。お祈りすると乳が出る乳のカミサマで、「乳房さん」がいつしか「チブサン」に。甘酒を供える信仰が近年まで続いていたという温かいエピソードもとても微笑ましい。

この絵の本物とご対面できます。申請して鍵を開けて頂き、古墳後円部の石室に続く細い階段を上がると目の前に現れるのは・・・、あまりにすごくて平常心を失いそうです。

現地にはガイダンスコーナーがあり石屋形のレプリカが展示しています。解説も図解とともにとても丁寧で、よく理解できます。広い公園内、チブサン古墳のすぐ隣には「オブサン古墳」。こちらは石室が開口しており見学できます。
(追記2018年10月:地震被害で復旧工事中。終了後に石室公開を再開とのこと)

山鹿一帯には、様々な装飾古墳があり、いくら見ても飽きることがありません。チブサン古墳の近くの熊本県立装飾古墳館は必見。

古墳館は全国唯一の装飾古墳専門館。
さすが装飾古墳王国です。

館には、図録や本でよく見る有名な装飾古墳のレプリカがずらりと並んでいて、まるでテーマパークのように楽しめます。イラストではありません。実物大のレプリカがずらりと。

保護のために現地は一切見学できないという装飾古墳がほとんどなので、装飾古墳館の実物大レプリカは貴重ですし、こんなに並ぶとお好きな方なら興奮ものです。


装飾古墳王国・九州の、
チブサン古墳(熊本県山鹿市)

*石室内本物の写真は、山鹿市HP・熊本県立装飾古墳館ガイドブックより。その他は筆者
*山鹿市博物館へ申請して鍵を開けていただきます。決められた時間やルールをよくご確認ください

 

【写真コーナー】—————-

チブサン古墳の玄室。石屋形という囲いは肥後の特徴
チブサン古墳 石屋形の絵

乳房?両の目玉?それとも
チブサン古墳 乳房?鳥の目?

妄想を刺激してくれる図
墓の主?宇宙?

チブサン古墳は6世紀の前方後円墳
チブサン古墳は前方後円墳

扉の鍵を開けて頂き、細い階段をいざ石室へ
石室への入口

古墳公園内のガイダンスコーナー
チブサン古墳ガイダンスコーナー

石人(せきじん)が被葬者を守っていました。埴輪でなく石人が古墳に立つのも地域の特徴
古墳に立っていた石人

ガイダンスコーナーの石屋形レプリカ
チブサン古墳レプリカ

真っ赤に塗りこめられて。あれは主人?宇宙人?
ガイダンスコーナーで絵がよくわかる

解説の図面をみると形状をよく理解できる。しっかりチェックして、いざ石室へ
ガイダンスコーナーの詳しい解説

隣にはオブサン古墳
(2016年の熊本地震による被害でオブサン古墳の石室は現在修復中で入れません。修復完了した折は公開され見学可能になるそうです)
オブサン古墳

オブサン古墳石室の最奥、石屋形
オブサン古墳の石室

前室の、奥に向かって右側の屍床(下の図面2番)
オブサン古墳の石屋形

オブサン古墳の解説。断面図をみるとひとつの石の意味もちゃんと理解できる。
オブサン古墳解説

オブサン古墳の断面図

 

熊本県立装飾古墳館のガイドブック。日本で唯一の装飾古墳に特化した博物館には各地の石室レプリカが並び圧倒されます。個性的な装飾絵画の数々をぜひ。ランチには古墳館の地産地消レストランで素朴な「だご汁定食」が最高です!
http://www.kofunkan.pref.kumamoto.jp/
熊本県立装飾古墳館ガイドブック

= よろしければシェアして下さいね =