亀塚古墳、築山古墳からさらに岬へ向かうと、佐賀関という漁師町があります。
あの全国に名を馳せる、関あじ・関さばの漁の基地。目の前の豊後水道は、潮の流れが速く複雑で、そこで身をもまれた魚が、本当に美味しいのです!
この佐賀関に、古くより地元の信仰篤い早吸日女(はやすひめ)神社があります。
亀塚古墳、築山古墳に眠る海人族から、脈々と今に続く、海に生きる土地の氏神様は、小さな町なのにあまりに立派な神社で驚きます。
この名前、「早吸日女」は、
風土記にでてくる「速来津媛」からきているのでは?
「速来津媛」だとすれば、風土記の土蜘蛛(中央への抵抗勢力)のうちのひとつで、一族を守るための策をとったと思われます。この地を率いた女性首長は、悩み苦しみ、政治的決断を下したのだろうと、少しせつない思いにとらわれてしまいます。
神社御由緒には、「海」「海女」「女性」というキーワードが。
神話時代の、神武天皇東遷の折の逸話が由来とされています。
東遷の途中ここへ立ち寄られた折、黒砂(いさご)・真砂(まさご)の海女二神が海の底にもぐり、大蛸が守護する神剣をとりあげて奉献、神武天皇がその剣を当地に祀ったのが神社の始まりと。
その剣が、この早吸日女神社のご神体となっています。
今も地元の方は「蛸断ち祈願」で願をかけ、蛸の絵を奉納します。
ご神体の剣を大蛸が守っていたことからきている風習だそうです。
絵馬にも「大蛸」、拝殿の中には願掛けの「蛸の絵」。
それにしても、この神社は、広く、建築物も見ごたえがあります。
拝殿の屋根は、鬼と龍と波、龍宮城や浦島太郎まで登場し、いかにも勇壮華麗な海人の氏神さま。
建築物は江戸時代のもので、県や市指定有形文化財の貴重なものが多数あります。関ヶ原の戦いの折にこの地でも激戦があり、全焼しましたが、加藤清正公により再建されました。神楽殿は清正公が建てたものが現存しています。
また、小野宮司家は現存する江戸時代の社家住宅として貴重なもの、「祈祷所・潔斎の間・大名の間」が残されています。各地の大名の宿泊所にもなり、測量に歩いた伊能忠敬も宿泊しました。
立派であること、古い由緒ある建築物が残っていることも、素晴らしいのですが、
何より素晴らしいと思うのは、
手入れが行き届き、空間が生きていること。
地元の人たちが丁寧に大切に整えているのが伝わってくる気がするのです。
築山古墳のある八幡神社もそうでしたが、ここ早吸日女神社もそう。
漁をして、氏神さまの立派な神社を(負担も大変でしょうに)大切に守り、そして、守られている。
そう、お互い様。守り守られ、なのだと思います。
海と暮らす人の想いが伝わってきます。
自分にも誰にでも、当たり前だったはずの、地に足の着いたこういう暮らしに出会ったときに、うらやましいような思いがこみ上げるのです。
絵馬も蛸!
拝殿の正面、青海波に龍。豪壮で華やか
浦島太郎や
龍宮城も
神社入り口の鳥居は肥後の初代藩主、細川忠利の寄進
鳥居をくぐったら総門。希少は八脚門。
総門をくぐって手を清め、さらに鳥居をくぐる
くぐって右へ。拝殿、本殿に続く
広い空と緑に抱かれた拝殿。広い境内の周りも見渡す限り空と木々。
案内板によると、「屋根は当地方の瓦技法を伝え、棟鬼瓦の唐獅子、千鳥破風の獅子口、大棟瓦の虎に竹、唐破風(青海波)の鬼と龍と波、両端の浦島太郎に龍宮城と華麗な屋根となっている」
拝殿内部には柱にも蛸の絵
「蛸断ち祈願」。願いがたくさん
拝殿右手から本殿の裏へまわる。手前が本殿、左奥の先ほど拝んだ拝殿から回ってきた。
加藤清正公がたてた神楽殿が残る
お守りを頂こうと立ち寄ると、蛸の絵馬がありました。
早吸日女神社の由緒と小野宮司社家のこと
青い海が広がる。速吸瀬戸といって流れが複雑で速い難所。
佐賀関の漁師がこの海から関あじ関さばを届けます。海沿いの食堂にて