瀬戸内海から外海へ出てゆく重要なポイント、
別府湾沿岸の海人族のことを書きながら、
一週間ぐらい頭の中が海でいっぱいでした。
でも、
海に囲まれた日本はどこだって海人族が活躍していたわけです。
九州ではいつもこんな会話をします。
「北と南」。
これは、
北の海路で朝鮮半島経由で大陸と繋がり、
南の海路で大陸の南のほう(南宋など)と直接、
または島々を経由して南洋諸島と繋がること。
でも、
日本の「北と南」と考えれば、
北の海路はオホーツク海です。
北はオホーツク海、
南は東シナ海。
こんなに遠くても、
一方は流氷で閉ざされ一方は嵐で荒れても、
同じように海と生きて、同じように大陸と繋がっていたと、
気づきます。
オホーツク文化圏で、大量の犬の骨が出ている現場を、
おそらく夏だけ犬を食べた、と伺いました。
冬と違って、夏は食料が貧弱だから、と。
え? 夏に食料が貧弱?
冬は雪で埋まるのに?
・・・と思うのは、南の人間の勝手な思い込みで、
トドやアザラシなど、海獣のご馳走は、冬が豊かなのです、 と。
そうか、目からウロコです。
当地には当地の、
自然があり文化があり生き方がありました。
ちっちゃな目で見てはいけませんでした。
北の海洋民が流氷の間を、
(おそらく)丸木船ひとつで、縦横に海獣の漁をしていたように、
南の海洋民は激しい黒潮を越えて(乗るのでなく越えて)、
(おそらく)丸木船ひとつで、行き来をしていました。
(それを物語るのが有名な市来式土器ですが、それは改めて)
北も南も、「渡来人」という言葉があります。
九州にいると、北の「渡来人」のことはあまり聞こえてきません。
弥生文化とセットで私たちはこの言葉を使います。
でも、
九州では、玄界灘の島々をつたって渡来人がやってきたように、
北海道では、オホーツク海の島々をつたって渡来人がやってきました。
昨年2018年に訪れ、あまりに面白くあまりに衝撃だった、
「オホーツク文化」のことを、まとめます。
そのあと、鹿児島の縄文のことをレポートしようと思いますので、
決意が流れてしまわないように、鹿児島の縄文土器の写真を。
*北海道では縄文時代のあとは弥生~古墳時代はなく、
続縄文文化~オホーツク文化・擦文文化、と続きます。
南の島々(現・鹿児島県)も年表が違うのですよね。
写真は、鹿児島の縄文文化を代表する「市来式(いちきしき)土器」です。
(鹿児島市立ふるさと考古歴史館 展示)
鹿児島の縄文土器はシンプルだと言われがちですが、これは独特で力強いでしょう!?
この土器が、トカラ列島の付近の今も難所とされる激しい海流を、
当時ですから丸木船で「横切って」行き来したのが、
島に土器が存在することで証明されています。
すごいことです。命がけ、です。
縄文土器は華やかなイメージがあるので、
鹿児島の縄文土器のシンプルさを物足りないという感想もまま耳にします。
いえいえ!強く援護しますと、
私はそれには理由があると感じており、
これがまた深い深ーい魅力があるのですが、それはまた。