別府湾沿岸の古墳をみていると、不思議なことがあります。
それは、古宮古墳。
これは一体、何なのでしょう?
別府湾沿岸では、
4~5世紀に、
大型前方後円墳が集中して築かれたのは、わかりました。
6世紀には、
ぱったりと全盛期を終え、もっと北の京都(みやこ)平野、(今の苅田~行橋)へ中心が移ったこともわかりました。
西暦600年前後に、
別府湾の古墳年表が空白になってから100年をおいて、いくつかの装飾古墳が築かれたのは在地の歴史をあらわしています。
そして、
さらに時を経て7世紀の半ばに、
最後の古墳として「古宮古墳」がポツリと築かれるのです。
しかも、九州で唯一の、刳り抜き式の石棺型石室。
一体なぜ、突然に?
一体なぜ、刳り抜き式という珍しくかつ贅をこらしたものが?
一体、この墓の主は誰なのでしょう?
海部古墳資料館の展示解説によれば、
「大化2(646)年の薄葬令により、死者の身分に応じた墓制が定められました。前方後円墳は姿を消し、小型の方墳や円墳に石棺式石室や漆塗木棺、高松塚古墳に代表される絵画装飾など美しく整えられた古墳に変わっていきました。」
大化の改新の一環で大規模古墳は姿を消し、墓制には厳格なルールが導入されました。
別府湾沿岸の高台に残る古宮古墳の築造は、この時期にあたります。
同時期の例としてあがるものは、なんとも煌びやか!
天武・持統陵石室、
高松塚古墳、
牽牛子塚古墳など。
高松塚の美人画や、牽牛子塚古墳の“八角形”などが、高句麗との繋がりをも連想させます。古宮古墳も、そんな流れの中にあるのでしょうか。
古宮古墳は、薄葬令によると「上臣(大臣)クラス」相当の方墳です。
大分のこの地で、その被葬者は…? となると、
死後に天武天皇から外小紫(とのしょうし)の位を送られた、
「大分君恵尺(えさか)」、
であろうと言われています。
壬申の乱で大活躍した人物として、
大分君恵尺(えさか)と稚臣(わかみ)が、日本書紀の天武紀に記されています。
また、現地に立つとよくわかるのですが、
この古墳は、なんと「風水思想」にも合致しているのです。
これも当時、朝鮮半島経由で伝わってきたもの。
当時の都で、高松塚やキトラや牽牛子塚に大陸文化の薫りが込められた、その同じ時代に、
位の高い主を葬るために作られた古宮古墳も、同じように大陸文化を体現しているものだとしたら…。
そんな目でこの高台に立ち、
恵尺の人生を想像すると、
身近な人としての息吹が立ち上るようです。
大分から出てゆき、都で活躍し、
歴史の大舞台に立ち、
大陸文化に触れて高揚し、
その薫りをまとい・・・。
そして最期に眠る場所は、故郷の大分なのだなあ、と。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
*石室の写真は大分市教育委員会に取材許可を得て撮影、掲載しています。転載はご遠慮ください
*古墳現地は入り口に格子の扉があり通常は中へは入れませんが、格子を通して奥の様子を見ることができます
巨大な岩を刳りぬいた石棺型石室
石室の内部
石室入り口部分、何重にも重層的に刻まれ飾られている
岩のアップ
日暮れだった為ライトで照らしつつ
一帯は整備された公園。高台にあり急な階段を登る
石室からの眺め。風水に基づく立地を体感します
現地の案内板
現地の写真(大分市観光協会より)。石室入り口の格子扉を通して内部を観れる
4・5世紀に別府湾沿岸に、6世紀に北部の京都平野に、集中しているのがわかる。年代的にはちょうど磐井の乱が境。そこの興味は機を改めて。
(以下、海部古墳資料館の展示パネル)
別府湾沿岸で、突如一番最後に「古宮古墳」が現れる
終末期の古墳と大分君
その当時の石室。高松塚、牽牛子塚など重要な古墳ばかり。
美人画、天文、四神、八角形など気になることばかりの時代
大化2年の薄葬令の厳格なルールと、古宮古墳にみえる風水思想
古宮古墳の場所。別府湾沿岸は瀬戸内への入り口として重要な場所