「此の郡(こおり)の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部(あまべ)の郡という。」
豊後国風土記に記された一文です。
豊後国は日田・玖珠・直入・大野・海部・大分・速見・国埼の8つの郡から成り、海部(あまべ)郡はそのひとつ。
豊後水道に面し、関アジ関サバで知られる、海の幸に恵まれた土地です。
突端の岬から四国の西端との距離はわずか31㎞。
フェリーで70分。
今も毎日16便が往来する交通の要所です。
そんな立地ですから、海人族が多く住んだ古代の海部郡は、航行を司る拠点でした。
別府湾沿岸に築かれた前方後円墳10基のうち、この亀塚古墳は、大分県最大の巨大古墳です。
全長116m、後円部62m、墳丘は3段築成。
テラスには円筒形・朝顔形・船形・家形・盾形という様々な形象埴輪がずらりとめぐらされました。
特徴的なのは、白い石英質の葺石です。
想像してみてください。
瀬戸内海を抜けてきた目に飛び込む、はるか高台にそびえる美しく威厳ある姿。白く輝く堂々たる姿の周囲には、赤い埴輪がぐるりと囲んでいる。
紺碧の海の中で浮かび上がるその威風堂々たる姿は、海部を支配した大首長の力をうかがうにふさわしい古墳です。
今、現地へ見学にいくと、一帯が公園として整備され、「海部資料館」に海部郡や大分全域の出土品や資料展示がありとても面白く過ごせます。
いかにも海人族らしい、船やスイジガイが刻まれた埴輪は必見。
赤色顔料がほどこされた石棺も地域色として興味をひくきポイントです。
亀塚古墳の横にある小さな高まり、小亀塚古墳も面白い。
古墳時代中期には、国東半島の北へ古墳の築造が移っていくのですが、海部勢力が弱まっていった時期を証明する貴重な古墳です。絶大な力を誇った亀塚古墳の被葬者と、その力を他所にゆずり消えてゆく時代の小亀塚古墳の被葬者。2つ並んだ古墳に、2人の人生を、想ってしまいます。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
116mを越える巨大前方後円墳。3段築成のテラスには、様々な形の形象埴輪がずらりとめぐる。
墳丘部へ登る。古墳の大きさが伝わりますでしょうか。
造り出しも設けられています。
大きい!規模に圧倒されます。公園として整備されています。
豊後水道の出入口、四国の突端と手が届きそうば立地。まっすぐ陸を西へ抜けると有明海に至る、交通の要所。
亀塚古墳公園の案内図。亀塚古墳、小亀塚古墳、海部古墳資料館が一体となっています。
古墳の墳丘頂上より。四国の陸が見えます。
亀塚古墳の案内板。
後円部には2ヶ所の埋葬主体部。
地元産の緑泥片岩を使った「海部の石棺」と言われるもの。板石を組み合わせた箱型石棺。
中には朱が塗られ、副葬品のスペースが区切られている。
主体部の出土状況。案内板より。
巨大な前方後円墳のすぐ横には、小さな古墳。小亀塚古墳は、海部の首長が勢力を失っていく時期を示す貴重な古墳。
隣接の海部古墳資料館
いま立っているエリアの当時の情景
竪穴式石室を造らず、墓壙を掘って直接おさめる直葬方法が海部地域の特徴。
海部の主要古墳。このエリアに県下最大の亀塚古墳、それに次ぐ築山古墳、臼塚古墳が。いずれも主要ルートの出入り口を抑えている。
豊後国風土記の一文、「此の郡の百姓は、みな、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部の郡という。」
亀塚古墳。大分県最大の前方後円墳。
埴輪に刻まれた「船」(亀塚古墳)
「船」の部分。船から延びる櫂?
埴輪に刻まれた「スイジガイ」。
スイジガイの文様
スイジガイの文様
スイジガイのぎざぎざの縁がくっきり。
海部王にふさわしい副葬品(しかし調査時にはすでに破壊されていた)
1号主体部からは滑石製曲玉もこんなに。
豊後水道という重要な交通路に面し、海と生きた民だった