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竹原古墳の装飾壁画
Japan 現地しっかりルポ

竹原古墳の壁画は高句麗を思わせる。四神や馬や火を吐く龍

装飾古墳ファンには絶対はずせない古墳です。飛鳥で高松塚やキトラを観たならば、ここ竹原も観なくては!

竹原古墳の装飾は、ひと目で海の向こうの文化とわかる独特の世界です。北朝鮮の世界遺産・高句麗壁画を彷彿とさせるものです。

竹原古墳(国史跡)は、王塚古墳(国特別史跡)と近い所にあります。破格にすごい2つの装飾古墳が近くにあるとは、このエリアの古代は一体どんな場所だったのでしょうか。

石室の装飾は幾何学文様でなく絵画です。東西南北の四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)、貴人の日よけに用いる翳(さしば)、馬をひく人物の膨らんだズボンやとがった靴、不思議な姿の龍。

誰がそれを見たのか、
誰がそれを知っていたのか、
誰がそれらをここに描いたのか…。

口から火を吐き体に赤い斑点をまとう龍は、四神の青龍とも、かの地の龍媒伝説とも、諸説あります。

高句麗(紀元前1世紀~7世紀)は、現在の中国東北部から北朝鮮、韓国の北部までの広大な勢力を誇りました。建国の王はドラマが大流行した「朱蒙(チュモン)」。九州には高句麗の匂いがする遺跡が数多くありますが、ここ竹原古墳の絵は最たるもののひとつです。

高句麗が残した装飾壁画は世界文化遺産です。遷都した高句麗3つの都、現在の中国の桓仁(かんじん)・集安(しゅうあん)と北朝鮮の平壌近郊に集中しています。王族の絵や女子群像や四神図や狩りの様子など、様々な見事な絵は、古代史好きなら誰もが一度は観たいと憧れるもの。

それらとあまりに似ている竹原古墳の絵。

そのことが何を意味しているのでしょうか。

九州の豪族と行き来があったのか、
情報が伝わってきたのか、
人が渡来してきたのか。

川や海や船や人というピースを紡ぐと様々に想像が膨らみます。

古代史ファンに有名なこの竹原古墳は、なんと、いつでも本物を見学できるという希少な装飾古墳です。ガラス越しにこの絵と向きあってみてください。千数百年を経て放ち続ける、底知れぬオーラを感じるはずです。双眼鏡をぜひご持参のほど。


装飾古墳王国・九州の、
竹原(たけはら)古墳。(福岡県宮若市)

*現地事務所へ申請して鍵を開けていただきます。時間やルールをよくご確認ください
*装飾古墳の環境管理(湿度や光)は、劣化をさけて後代へ引き継ぐため。現地では許された範囲で見学を。
*壁画写真は、竹原古墳公式パンフレット(宮若市教育委員会)より

 

【写真コーナー】—————-

奥壁の神秘的な絵は今も驚くほど鮮やか。大陸的な人物、騎馬、船、さしば。
高句麗の装飾古墳を思わせる竹原古墳

ガラスの小窓を通して見学できる。手前壁面、右は朱雀、左は玄武
竹原古墳の石室内部

小さな墳丘を登ると見学施設
竹原古墳へ登る道

登ったところには小さな神社
竹原古墳に建つ神社

火を吐く姿、とがった爪、赤い斑点。四神の青龍とも、龍媒伝説とも
馬は火を吐いているように見える

大きく膨らむズボンととがった靴。大陸的な服装
竹原古墳奥壁の絵

翳(さしば)。柄の長い団扇。行列で貴人にさしかける図柄が中国の古墳にはある
高句麗壁画を思わせるさしば

 

竹原古墳と北朝鮮の世界遺産・江西大墓の比較。森貞次郎氏、西谷正氏の資料より
北朝鮮「江西大墓」と「竹原古墳」の比較

 

竹原古墳の案内板
竹原古墳の案内板

 

竹原古墳パンフレット(若宮市教育委員会)
竹原古墳パンフレット

 

竹原古墳パンフレット

 

 

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王塚装飾古墳館の実物大石室
Japan 現地しっかりルポ

王塚古墳。隙間なく描かれた石室内はまるで耳なし芳一の世界。が、しかし。

石室の中、墓の主が眠るその部屋のなんとゴージャスなこと!

何色も使い、様々な文様を、神秘的で美しくてポップに、空間全てを埋め尽くして描いています。誰もが、中に入るとウヮーっと声を絞り出し口を開けて天井を仰ぎ見ます。それほど強烈なインパクト。

ところで、石室と言ってもここは、古墳に隣接している王塚装飾古墳館の、実物大の石室レプリカです。こうやって入って体感できるのは本当に楽しい。壁を眺めてああでもないこうでもないと同行の方たちと想像をたたかわせていると、時間を忘れます。

石屋形や入口の小窓や灯明台など、複雑で特徴ある構造は見どころ満載です。

「赤・黄・緑・黒・白」と5色も用いていることも、壁一面にびっしりと文様が描かれていることも、お目にかかれることではありません。

満天の星や幾何学文様。
盾や靱(ゆぎ)などの武具。
馬と人。

中でも絶対に注目していただきたいのは、
双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)です!

2本の足が生えたような双脚輪状文は肥後独特の文様で、(1)熊本、(2)八女地方(熊本県と福岡県の県境)、(3)この王塚古墳、の3ヶ所でしか見つかっていません。ここだけがぽーんと離れています。当時の勢力図や地形をいろいろ考えあわせると、豪族たちの勢力争いの中で、交流や婚姻により生き残りを図っていた姿が見えてきそうです。

古代の人々が人生を生き、闊歩した姿が、鮮やかに迫ってくるような時間です。

 


装飾古墳王国・九州の、
王塚(おうづか)古墳。(福岡県嘉穂郡桂川町)
装飾壁画のある古墳としては日本に3つだけの国特別史跡(=遺跡の国宝)の中の1つ。あと2つは、飛鳥歴史公園内のあの誰もが知る女子群像で「高松塚古墳」と四神図の「キトラ古墳」。

*館内に原寸レプリカ復元。石室写真はすべて館内、筆者
*本物の古墳石室は春と秋の公開日にガラス越しに見学可能
*館の承諾のうえ掲載しております。転載ご遠慮ください

 

【写真コーナー】—————-

館内には石室の原寸レプリカ。前室から主が眠る玄室を望む
王塚装飾古墳館の石室レプリカ

玄室入り口には馬と人。蕨手文。双脚輪状文に注目!
王塚古墳の石室 馬と蕨手文と双脚輪状文

玄室内には石棚と石屋形。まさに肥後の特徴。高い天井を埋め尽くすのは満天の星だろうか
王塚古墳石室は全体に隙間なく絵が

石屋形には主と、おそらく夫人。室内には枕が4つ、少なくとも4人が葬られている
王塚古墳の屍床

棺台の脇を固める、双脚輪状文。何を意味するのだろう
蕨手文は王塚古墳の特徴

玄室右手には靫(ゆぎ)がずらり(背中に背負う矢筒)
王塚古墳石室の靱の絵

玄室左手には楯がずらり。主は武人として活躍したのでしょう
王塚古墳石室の盾の絵

靫の上には弓もセットで
靱の上には弓も

奥から入り口を望む。小窓は肥後の特徴。表(前室)からは見えない裏側にまでもびっしりと文様。しかし・・・
玄室から入口方面を見たところ

室内で1か所だけ何も描いていない所が。職人の描き忘れか、深い意味があるのか。もしや魂の出入り口? 謎です。耳なし芳一を思い出す
玄室入口の一ヶ所だけ絵が無い

王塚装飾古墳館 外観
王塚装飾古墳館の外観

隣の丘の古墳に登ります
史跡 王塚古墳

春と秋の2回、特別公開がある予定。詳しくは自治体の情報を。公開日には全国からファンが訪れ行列ができます
王塚古墳の石室入口

 

特別史跡王塚古墳の石室と壁画

特別史跡王塚古墳の案内板

 

九州国立博物館公式サイトより。装飾古墳の特設ページはとても見ごたえがあります。
http://s-kofun.kyuhaku.jp/
九州国立博物館の装飾古墳データベース

 

 

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大島の中津宮から港を望む(宗像)
Japan 現地しっかりルポ

天の真名井で醸した日本酒で、この身も清められたような

天の真名井(あめのまない)。
宗像三女神の次女・湍津姫神(たぎつひめ)を祀る大島の中津宮にあります。

境内のはずれ、鬱蒼とした坂を下ったところに湧き出ている聖水。この天の真名井の御神水で醸した日本酒があります。その名も「沖ノ島」。

真名井という名は各地にあり、神社に、滝に、霊水に、名付けられています。真名井とは聖水・清浄な水の意味で、「天の真名井」はその最大級の敬称です。

宗像では江戸時代からの酒蔵が2軒、今も地元に愛されるお酒を手作りで醸し続けています。
伊豆本店は享保2年(1717年)創業。
勝屋酒造は寛政2年(1790年)創業。

伊豆本店からは国宝をラベルにした神酒「宗像」が。
勝屋酒造からは天の真名井で醸された「沖ノ島」が。

世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、古代から今も変わらず続く海の民の祈りです。
天照大神の三女神、
「田心姫神(たごりひめ)」
「湍津姫神(たぎつひめ)」
「市杵島姫神(いちきしまのひめ)」を、
沖津宮・中津宮・辺津宮でお祀りしています。

三女神へ手を合わせてご参拝したら、一酌も、ありがたくいただきます。

 

【写真コーナー】—————-

大島の「中津宮」。鳥居の向こうには大島港が見える
大島の中津宮(大島港を望む)

大島の北側は見渡す限り、玄界灘!運が良ければ遠くに沖ノ島が見える
大島から玄界灘を(宗像)

中津宮の参道入り口
大島の中津宮 参道

森に囲まれた階段を登るのは身を清められているよう
中津宮 手を清め急な階段をあがる

中津宮の拝殿。厳か。
中津宮の拝殿

こちらは秋の神事「みあれ祭」前日の風景。沖津宮と中津宮の二女神のこの輿が明日には大船団に守られ湾を渡る。一年に一度、三女伸が辺津宮で会す大事な日。
中津宮の拝殿に2つの輿(みあれ祭)

古事記の一節。天照大神の勅。「海北道中(玄界灘)で神を助け奉りなさい」
天照大神の勅(大島の中津宮)

え!「宗像大神を奉斎する神社は全国に六千余社」も!?
そういえば、島根の出雲大社でも広島の厳島神社でも、見ました。
宗像大社中津宮のご由緒

うっそうとした坂を下り「天の真名井」へ
天の真名井へと下る道

霊水「天真井」
霊泉 天真井

中津宮御神水「天の真名井」で醸した「沖ノ島」と、大島限定販売の「おおしま」
日本酒「沖ノ島」と「宗像おおしま」

今や福岡のお土産の定番、ご当地めんべい。宗像はわかめ入りの「宗像わかめんべい」。パッケージはもちろん三女神!海の道むなかた館のミュージアムショップには地元のおいしい海産加工品も多くて評判が高いのですが、中でもこれは人気商品です。
宗像わかめんべい のパッケージ

 

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鐘崎のアワビ踊り焼き
Japan 現地しっかりルポ

海女のルーツと「アマアルキ」。鐘崎と能登の交流のワケが江戸時代にあったとは!

海女も、海の民です。
命がけの素潜りで干しアワビなどの交易品を支えた海女たちも、荒れる玄界灘を大陸へと渡った海人たちも、同じ海の民でした。

鐘崎は海女発祥の地です。

2017年に世界文化遺産に登録された、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群。宗像の漁師たちは古代からずっと宗像大社の三女神への信仰篤く、今も禁忌を守り続けます。

その宗像大社の秋の大祭の3日間は「みあれ祭」で始まります。大船団が満艦飾の大漁旗をはためかせ、湾を埋め尽くす壮麗な神事「みあれ祭」。勇壮な光景に見ているだけで高揚もしますし、同時に、思わず涙腺が緩むような胸に迫るものがあります。七浦の港の漁師たちの大船団。あの写真はどこかできっとご覧になっていますね。

鐘崎は、その七浦のひとつです。

海はすべてを運びます。
遣唐使も、
北前線も、
海女も、
海が運んでゆきました。

海女の出稼ぎを「アマアルキ」と言いました。江戸時代、海女は海流に乗って遠くまで流れ、各地に分村を作りました。遠くは能登半島までたどりついたそうです。能登の遺跡めぐりの折、某所の鎮守様であるお寺の案内板に「鐘崎海女が居ついた」という文を見た時には、あまりに意表をつかれ驚きました。渤海使を迎えた客館があるはずという地を、遠く中国の東北地方を描きながらめぐっていた時ですから、「鐘崎」がこんなところに!?ととても印象に残っています。

海女たちは、たくましく潜り、たくましく稼ぎました。
中国への輸出品として高価に取引される干しアワビなどで、海女たちが江戸時代の地域経済を支えたことは見逃せません。

同じ福岡県内、福岡市の志賀島でも、海女たちが今も潜っています。現役最高齢は75才と聞きました。

おかげで当地では、地元の海女さんたちが採るアワビもサザエも、ありがたく美味しく、いただいています。
ここは海の民の地だと感じる、幸せな時です。

【写真コーナー】——————

玄界灘を眺める「筑前鐘崎海女の像」。海女発祥の地、鐘崎漁港にて
筑前鐘崎海女の像

鐘崎の鎮守様「織幡宮」に、海女の像は立っている
織幡宮 鳥居の扁額

岬の突端の高台、急な階段をあがったら海を一望できる。有明海方面の古社とも縁が深く、記紀にも出てくる由緒あるお宮です
高台にみえる織幡宮

鐘崎のアワビ踊り焼き

みあれ祭を守る七浦のひとつ、鐘崎漁港。湾の突端の小高い丘に織幡宮と海女の像。
鐘崎漁港の眺め

「海女発祥の地 鐘崎」の碑。
「先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で各方面で大活躍をした。特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である」
海女発祥の地 鐘崎

海流にのってどこまでも「アマアルキ」と言われた出稼ぎに。能登半島の輪島で「鐘崎海女が居ついた」という案内板を見た時は驚いた!
(写真は海の道むなかた館 展示パネル)
鐘崎海女の出稼ぎ生活

江戸時代の中国貿易に干しアワビの需要が高まり、出稼ぎ・移住で海女の技術を広めた。ノウハウ伝授の先人です。
アマアルキの解説

対馬海流にのって、隠岐の島にも、能登半島までも。貿易品に珍重された俵物三品は、干しアワビ・イリコ・フカヒレ。
(以上、海の道むなかた館展示パネル)
アマアルキの活動エリア

鐘崎海女の道具は福岡県の文化財
(海の道むなかた館 展示)
鐘崎海女の道具

鐘崎海女のおかげで、美味しいアワビをいただけます。しあわせ。
鐘崎のアワビ踊り焼き

同じ福岡県内で西へ40㎞の志賀島でも博多湾に潜る海女が活躍中。こちらはサザエが有名。志賀海神社参道の中西食堂は大人気で、フランスからの観光客も探し当てて来店すると聞き、驚き。
志賀島の中西食堂

次々と注文が。ジュージューと焼ける音と美味しそうな香り!
サザエのつぼ焼き(中西食堂)

サザエを採る海女さん、最高齢は75才と聞いた。あれから2年‥。
博多湾のサザエが山盛り(中西食堂)

博多湾は内海なので志賀島サザエは柔らかい。今までお連れした方、皆さん絶賛!です
ジュージュー焼けるサザエつぼ焼き(中西食堂)

鐘崎漁港の朝焼け
鐘崎港の夜明け

今日も一日が暮れる
鐘崎港から望む夕陽

海女たちも見た夕陽。ここは海の民の地(鐘崎港から望む)
玄界灘の夕焼け(鐘崎港から)

 

 

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相島の積石塚
Japan 現地しっかりルポ

254基の積石塚。海岸線に累々と続く謎の墓

254基の積石塚もすごいけれど、
膨大な石ころ群にしか見えない海岸を、調査復元するのがすごすぎる!

相島(あいのしま)。
最近、猫の島で有名になり、渡船がいつもいっぱいだそうです。
私たちが渡った日も、韓国の若い人たちが団体で乗船、島に着くなりしゃがみこんで猫をなでたりさすったり。猫人気は、国際的です。

歴史好きの方には、
「積石塚(つみいしづか)」のほうがピンときますでしょう。
海岸線に積石塚が254基も続く光景はここでしか体験できません。

積石塚は日本でも 各地にありますが、
最大のものは長野市松代の大室古墳群で約500基。
ここ相 島は日本で2番目の規模です。

積石塚は高句麗の墓制として有名ですが、ここはそれとは直接の関係はないとのこと。なぜここに積石塚が?と、妄想が膨らみます。

某CMで“◎らし”が「光の道」の美しさに感動する場面。
あれで一躍全国的に有名になったのが宮地嶽神社の参道です。
彼らが座っていたベンチは写真撮影の聖地と化したそうです。
その時のその視線の一直線の先に浮かんでいるのが、積石塚の相島です。

相島が浮かぶ海は、
古代には、志賀島を本拠とする阿曇族が活躍する海でした。
江戸時代には、江戸へ向かう朝鮮通信使一行をもてなした島でした。
海岸線の積石塚に眠る人々はどんな人たちだったのでしょうか。

最近では、水中考古学の調査が行われています。
奈良の都へ向かう船が沈没したらしき、平安時代の九州産の瓦が引き上げられたのです。
どの時代にも、海路の重要なポジションだったのがわかります。

海は今もとても綺麗で、港のすぐ横では真珠の養殖をしています。
海辺にミキモトの加工場があり、いまや年間10万粒も送り出されているとか。

美しい海と古代のドラマがある島は、
福岡タワーが近くに見える場所でもあります。
飛行機が福岡空港へ向けて降下する直前には、
左の窓のすぐ眼下に積石塚を見おろすことができます。

福岡はビルが集中する都会ですけれど、海も日常。
「海」を知ると、もっともっと面白くなる街です。

 

海岸線の254基の積石塚。見学はここからスタート。ソウルの石村洞古墳群を思い出す姿です。あちらは高句麗の墓制ですが、ここは高句麗とは無関係とか。
最も大きな相島大塚(120号墳)

4世紀の終わりから6世紀にかけて造られ続けました。加耶系の初期須恵器が出ています。国指定史跡。
相島積石塚群の案内板

皆さんで見学中の古墳が、最大の相島大塚(120号墳)
人が立つと相島大塚の大きさがわかる

相島大塚(120号墳)の海側に回る。案内板が。
海岸線に連なる相島積石塚

相島大塚の案内板

 

登ってみると、前方後方墳に竪穴式石室が開口している。草が生き生きと伸びて写真は花壇のように見えてしまいますが。。天井石がなくなっているし盗掘もされていたが、須恵器が出ている。
相島大塚の竪穴式石室

海岸線に累々と続く
海岸の積石塚群

右手の岬の先が名勝・鼻栗瀬。この海底で平安時代に博多で焼かれた瓦が見つかり、水中考古学の調査が注目されている。都へ運ぶ船の転覆か?
鼻栗瀬。平安時代の瓦が海底から発見された場所

島内をぐるりと回りながら港へ戻る。途中、いろいろな時代の史跡が残る。
相島遠見番所跡の標識

港の近くに「朝鮮通信使客館跡」。300~500人の通信使一行へ、黒田藩のもてなしが、ここで盛大丁重になされていた。
相島の朝鮮通信使客館跡

朝鮮通信使客館図の案内板

朝鮮通信使客館跡の案内板

 

港の待合所には、島で一軒の「丸山食堂」
相島港の丸山食堂

海鮮ちゃんぽん、オススメです
相島名物の海鮮ちゃんぽん

港のすぐ横では、真珠の養殖が
相島の真珠養殖

ミキモトの加工場があり、今や年間10万粒の出荷
ミキモト博多真珠養殖

新宮港まで15分の船旅。気持ちいい!福岡タワーまで見えます
相島港から新宮港へ

あぁ~、青いなあ~!ずっと着かなければいいなあ。

こちらは宮地嶽神社の参道(福津市)。CMで全国に知られた「光の道」は夕陽がまっすぐにここへ。参道のまっすぐ先に浮かぶのが相島で、宮地嶽神社の巨石古墳の石材も関係がある。
宮地嶽神社参道から望む相島

「光の道」のポスター。相島に夕陽が沈み、参道に真っ赤な光が一直線に。
宮地嶽神社 光の道ポスター

 

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潮見展望台からみる海の中道の眺め
Japan 現地しっかりルポ

阿曇族の本拠地・志賀島。古代から続く志賀海神社は海と生きる人々の信仰篤き宮

海の青さと広さ。
ここが福岡市内、しかも福岡空港から車で30分の近さと聞くと、驚く方も多いです。

でもこれが福岡のそもそもの姿。
昔からずっと、海と生きた、海の民なのだと思っています。
万葉集でも海人や藻塩のことが詠われ、海とともに生きていた志賀島が二十首も登場します。

国宝・金印が出たことで有名なここ志賀島(しかのしま)は、古代の海の民「阿曇族」の本拠地。志賀海(しかうみ)神社への信仰篤く、わたつみの神と生きてきた地です。

世界遺産となったムナカタ族と同じで、志賀海神社も中津宮と沖津宮をあわせた3宮が島にあります。表・中・底の、わたつみ三神です。

今年、面白いプロジェクトが動いています。

1つは、九州大学ソーシャルアートラボとのコラボです。安曇族にちなんだ神楽歌 「阿知女作法」の沖津宮での奉納など。

もう1つは、京都観世会館でのお能です。桃山時代より謡い継がれる志賀海神社伝承の謡曲を、能の形として復曲、京都で初上演とのこと。

海の民「阿曇族」&能舞台。福岡市の横顔が芸術にいかに昇華するのか楽しみです!

ところで、
「阿曇族」をテーマとして毎年福岡で行われているシンポジウムがあります。
古代、阿曇族はここから全国各地へ散ってゆきました。海を経て川を遡り、その地へ根付きました。いま各地に「あずみ」の名が多く残っており、全国ネットワークも築かれています。長野県の「安曇野」は代表的なひとつで、毎年、志賀島と様々な連携企画を開催しておられます。日本の屋根、アルプス連山に抱かれた山の中で、海の神が祀られているという安曇野神社に、いつか足を運びたいと思っています。

 

志賀島の入り口にある志賀海(しかうみ)神社でまずはご参拝。古代からずっと宮司は阿曇家。海人の神、水と塩の神様。
志賀海神社の入口

 

志賀海神社の案内板

 

まずは御潮井(お清め砂)。左→右→左とかけて清めます。砂というのが福岡流。あの山笠も、祭りのスタートは浜でのお汐井とり(清めの神事)からです。
御潮井(志賀海神社の清め砂)

 

こんもりした山に抱かれた神社へ登ってゆきます。

 

 

 

ここまでの長い参道にも宝篋印塔(ほうきょういんとう)や歩射祭の場や万葉歌碑など見所たくさん。境内には文化財も多い。神事のひとつ「山誉め祭」は、山を誉め、大漁を祈る。山があるから海があるという感謝。智恵とはこういうことだろう。
志賀海神社の文化財案内板

楼門。鬱蒼と茂る木々と眼下の青い海。しかも、海の中道をはさんだ外海の玄界灘と波静かな博多湾。海と山、どちらとも守り守られの暮らし。
志賀海神社の楼門

志賀海神社の楼門

御祭神は表・中・底のわたつみ三神。海の民に篤く信仰されている。神功皇后伝説が多く残る地でもある。ここでは絵馬でなく「絵魚」で願かけを。
志賀海神社ご由緒

拝殿へ。
志賀海神社の拝殿

拝殿の前にも御潮井。
志賀海神社拝殿の前にも御潮井

はるか東を望む遥拝所。
遠く東を。遥拝所

神功皇后伝承が残る亀石。新羅遠征の折に阿曇磯良丸を通して安全を祈り、亀に助けられ無事に帰還したというお話。
亀石 遥拝所

国宝・金印の出土地。博多湾に面し、一直線の向こうには中国の洛陽、西安。江戸時代に地元の甚兵衛さんが見つけたという場所は、今は海の中。この横に、国宝・金印の実寸レプリカも展示されています。本物を観に、福岡市博物館へ、ぜひ。
志賀島金印公園

志賀島の最奥、勝馬の地に、中津宮・沖津宮があります。中津宮は7世紀後半の古墳の上。勝馬を率いた海人集団の首長墓と思われる。
志賀海神社の中津宮

古墳頂上の社の横には、ささやかな遥拝所。地元の方が綺麗に手入れしておられる。ここから、沖津宮を拝むのだろう。
志賀海神社中津宮に沖津宮遥拝所が

青い!透き通っている。中津宮から海側へ降りたら、こんな風景。ここはもう、玄界灘、外海である。右の小島が沖津宮。
浅瀬を渡り沖津宮へ

沖津宮へは、干潮になると道が通じて歩いて渡れる。麓に鳥居が小さく見えているのがわかりますか?
引き潮で道が現れる(志賀海神社沖津宮)

さらに視線を右(=東)へ移すと画面右1/3ぐらいに相島が見える。平たい台形の島。積石塚がある。この辺りまでが阿曇族、その向こうはムナカタ族。
志賀島から見える相島

浅瀬では海藻を採る方があちこちに。ポイントごとに採れる海藻が違うのだそう。
志賀島わかめ採り

志賀島のワカメは柔らかくて美味しいと、お土産にすると喜ばれます。
採ったばかりのわかめ

万葉集にも謡われた志賀の海人。海藻を刈ったり藻塩を焼いたりと忙しく、髪をすく櫛を手にすることもない、と。
志賀の海人 万葉集の碑

志賀島 万葉歌碑

 

阿曇族と古典芸能のコラボレーション。楽しみです。

潮見展望台から。海の中道の向こうに大都会福岡市のビル群や福岡タワー、大宰府へ続く水城まで見える。ここも福岡市です。

飛行機の窓から。福岡空港へ着陸前、海の中道を横切って降下中。海の中道に続く右奥が志賀島。
飛行機からみる志賀島

 

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瑞山三尊摩崖仏(百済の微笑み)
Korea 現地しっかりルポ

もうひとつの百済

「もうひとつの百済」。
来年の企画が1つできました。

百済へは何度も行きましたが、今回は全く違う視点から。
日本初、いやおそらく韓国でも初かもしれません。

百済は日本とゆかりが深く、武寧王や白村江の戦などはよくご存知でしょう。その百済の、三つの都や王宮ではなく、唐が攻めてくる戦の最前線の地をめぐります。

仁川空港に飛行機が降下を始めると、左側の眼下に複雑な海岸線やたくさんの島が広がります。忠清南道の最北エリア、公州から仁川に向かう途中のこの半島は、百済滅亡前の秘話や遺跡を多く残しています。

複雑な海岸線から上陸してくる場所。
海を経て唐(中国)と向きあった最前線だったから。

儒教や書の文化など、韓国らしい伝統文化が詰まった場所としても有名です。後年、「後百済」の復興運動の発火点にもなりました。

写真はそのエリアの「瑞山三尊磨崖仏」。
「百済の微笑み」とも呼ばれます。
百済後期の作で、韓国磨崖仏の傑作といわれます。

このエリア独特のお顔。こんなにも柔らかな表情の磨崖仏が集中しているのは、最前線の厳しさにいた人々の心が求めたものではないか。そんなことを想像しながら歩きます。

現地に立つのは、
年表の年号や遺跡の寸法を知るためではありません。
その時そこで生きた人たちを感じとるため。
そして、その地へのリスペクトを持ち帰るため。

 

「瑞山三尊磨崖仏」
600年頃、百済後期の作と推定。韓国の磨崖仏の傑作とされる
瑞山三尊摩崖仏全景(百済の微笑み)

大きさは人物と比べて下さい。こんなに間近で拝めます
瑞山三尊摩崖仏が刻まれた巨岩

頭光に3体の化仏、見えますか?
瑞山三尊摩崖仏(百済の微笑み)

山中の壮大な景色の中で微笑んでおられます
山々の中の瑞山三尊摩崖仏

周りはこんな感じ。階段を5分ほど登るとたどりつきます
摩崖仏の周囲の様子

現地へおでかけの折は時間にご注意を
瑞山三尊摩崖仏の案内板

 

地方ならではの素朴な食事は本当に楽しみ!おから料理は純豆腐料理に似ていて滑らかな冷たいスープ状。かなり気に入りました。出遅れた!ので我がテーブルはスタートしており、少し食べかけの写真で失礼します。
摩崖仏の近くでおから料理

麦ごはんと野菜が美味しい!
瑞山三尊摩崖仏のあと麦ごはんと野菜

韓国の食の基本「五味五色」はきちんと。
赤・緑・黄・白・黒
韓国料理の五味五色

 

 

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円山大飯店ロビー(台湾・台北)
Taiwan 現地しっかりルポ

台湾神宮にあった龍。なんと円山大飯店に

台北のランドマークでもある「円山大飯店」。
その山側エントランスのロビーに金の龍がいます。
金の龍はかつて、日本統治時代の台湾神宮に在りました。
あまり耳にすることのない話です。

高台でひときわ目を引く円山大飯店の赤い美しい姿は、ご覧になることが多いでしょう。剣鐸山の山裾、どこからも見え、どこまでも一望できるそこは、日本統治時代に台湾総鎮守の「台湾神宮」があった場所でもあるのです。

写真は現在の円山大飯店。
戦時下の供出や台湾神宮全焼の中で奇跡的に生き残った「銅龍」が、今は金を施された「金龍」となりホテル内に飾られています。

日本統治時代、台湾には184ヶ所の神社がありました。
(官幣社など国設置68ヶ所、社・祠など居留者設置116ヶ所)。
そして、日本敗戦後はすべて廃社されました。

台湾神宮の跡地には、まず台湾政府所管のホテルが建てられ、その後に経営権が円山大飯店に移り、今に至っています。

昭和天皇皇太子時代の台湾行啓の折には、大きくまっすぐな「勅使街道」が作られました。台湾神宮への参拝のためのその道は、町の中心部から高台へと続いていました。

今もその道が、台北中心部を南北に貫く大通り「中山北路」として、まっすぐにこの高台へ延びています。

ところで、

今の私の注目Best3は、
◎「中央研究院展示室」
◎「十三行遺跡」
◎「順益台灣原住民博物館」

本当に面白い。
国宝級遺物の数々。
鉄生産や海外交易でとても豊かだったのに、古代数世紀にわたりヒエラルキーを生まず平和に継続した集落遺跡。
観たこともない繊細で美しい土器や土偶など。

古代から近代、そして現在まで、
私たちと様々な関係を経てきた台湾。
近い台湾。もっと行ってもっと興味を持っていい。

円山大飯店ロビー(台湾・台北市)
国賓を迎える台湾の顔とも言えるホテル。
円山大飯店ロビーは赤が美しい(台湾・台北)

日本統治時代にこの山に存在した台湾神宮。跡地のホテルの中に、当時を生き抜いた銅龍が金を施された姿となり移設されています。山側客室棟のロビーにあります。金龍は台湾神宮にあった(円山大飯店・台北)

 

戦時下の供出や神社焼失の中を生き抜いた銅龍は、霊験あらたかと地元の人が大事に拝み続け、1987年に金が施され今の姿となりました。
台湾神宮にあった金龍(円山大飯店・台北)
金龍の説明(百年金龍紹介)

世界中からのゲストがここを歩く場面はニュース等でよく目にします
円山大飯店ロビー階段(台湾・台北)

豪華な内装にはドラゴンが多い
天井のドラゴン(円山大飯店)

遠方からも見える姿は台北のランドマーク
円山大飯店の外観

館内にはホテルの歴史の展示コーナーも。激動の歴史を語る何枚もの写真。その1枚目が「かつて台湾の神社だった」というこのパネル。蒋介石夫人の宋美齢女史が、かつて神社があった剣鐸山のこの地を気に入っていたとのこと。歴史に名を残す多くの人が写真に登場して息をのむ
台湾神社の写真パネル

台湾神宮の絵図
*絵図の写真はパブリックドメイン(public domain)
台湾神宮の絵図

 

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春川世宗ホテル(韓国・江原道)
Korea 現地しっかりルポ

韓国に神社の石段が残っていた


韓国を歩くと、知らなかったことに遭遇し驚くことばかりです。

歴史ツアーで宿泊したホテルの石段が、日本統治時代の神社の、数少ない痕跡だったとは!

敗戦の日の翌日、1945年8月16日、
京城(現ソウル)にあった朝鮮の総鎮守「朝鮮神宮」は日本人の手で昇神式にて御祭神は奉還されました。そして後日、すべて燃やして廃社されました。

今は何の痕跡も残っていません。
場所は明洞、今の南山公園。
ソウルタワーやケーブルカーでにぎわう観光スポットです。

日本が統治していた当時の朝鮮には官幣社や国弊社などが82ヶ所、居留者が設置した社・神祠を加えると全部で995ヶ所の神社がありました。

その神社の、数少ない痕跡のひとつが、
江原道春川の旧江原神社の跡。
石段が、現在の世宗ホテルの正面階段として残っています。
とは言え、石段を「モノ」として活用しているだけで、
宗教的な痕跡はまったくありません。

かたらんねツアーでは過去に2度、それとは知らず泊まっています。
世宗ホテルは、春川の中心部を少し外れた高台の、決して便利ではないけれど眺めのいい場所にあります。江原神社の話を知っていれば違う見方、感じ方があったかもしれません。

明日は台北の台湾神宮のお話を。
あっと驚くような場所に、今も痕跡を残しています。

*数字は下記から引用させて頂きました
中島三千男氏『海外神社跡地の景観変容 さまざまな現在』
川瀬貴也氏 京都大学人文学研究所『人文学報』108号

 

春川世宗ホテル(韓国・江原道春川)
春川世宗ホテル(韓国・江原道)

市内中心部はずれの高台にあり静かな環境
春川世宗ホテルは街を見渡せる高台(韓国・江原道)

正面の階段は日本が占領していた時代の旧・江原神社の痕跡
正面階段は日本統治時代の神社の痕跡(春川世宗ホテル)

政財界の方々も集うホテル
格式ある春川世宗ホテルは政財界人が集う

韓国の歴代大統領もここへ
韓国の歴代大統領もここへ(春川世宗ホテル)

「京城名所 朝鮮神宮」とある。これは占領期の絵はがき。
現在のソウル中心部、明洞にあった。
*絵はがきの写真はパブリックドメイン(public domain)
「京城名所 朝鮮神宮」絵ハガキ

春川の町を望む。澄み切った青空、からりとさわやかな空気、美しい街。国立春川博物館の高台より
国立春川博物館から街を一望

春川と言えば、「冬のソナタ」のヨン様。雪のオブジェがあふれる冬ソナストリートもあるけれど・・・
春川の「冬のソナタ」通りには2人の手形

片手にマグライト、片手に方位磁石で、
芳洞里高句麗遺跡の石室

高句麗遺跡を訪ねる我々のような人々もいますよ。
芳洞里高句麗遺跡の案内板

 

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