遺跡好きが作る現地へ行きたい人のためのブログ

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相島の積石塚
Japan

254基の積石塚。海岸線に累々と続く謎の墓

254基の積石塚もすごいけれど、
膨大な石ころ群にしか見えない海岸を、調査復元するのがすごすぎる!

相島(あいのしま)。
最近、猫の島で有名になり、渡船がいつもいっぱいだそうです。
私たちが渡った日も、韓国の若い人たちが団体で乗船、島に着くなりしゃがみこんで猫をなでたりさすったり。猫人気は、国際的です。

歴史好きの方には、
「積石塚(つみいしづか)」のほうがピンときますでしょう。
海岸線に積石塚が254基も続く光景はここでしか体験できません。

積石塚は日本でも 各地にありますが、
最大のものは長野市松代の大室古墳群で約500基。
ここ相 島は日本で2番目の規模です。

積石塚は高句麗の墓制として有名ですが、ここはそれとは直接の関係はないとのこと。なぜここに積石塚が?と、妄想が膨らみます。

某CMで“◎らし”が「光の道」の美しさに感動する場面。
あれで一躍全国的に有名になったのが宮地嶽神社の参道です。
彼らが座っていたベンチは写真撮影の聖地と化したそうです。
その時のその視線の一直線の先に浮かんでいるのが、積石塚の相島です。

相島が浮かぶ海は、
古代には、志賀島を本拠とする阿曇族が活躍する海でした。
江戸時代には、江戸へ向かう朝鮮通信使一行をもてなした島でした。
海岸線の積石塚に眠る人々はどんな人たちだったのでしょうか。

最近では、水中考古学の調査が行われています。
奈良の都へ向かう船が沈没したらしき、平安時代の九州産の瓦が引き上げられたのです。
どの時代にも、海路の重要なポジションだったのがわかります。

海は今もとても綺麗で、港のすぐ横では真珠の養殖をしています。
海辺にミキモトの加工場があり、いまや年間10万粒も送り出されているとか。

美しい海と古代のドラマがある島は、
福岡タワーが近くに見える場所でもあります。
飛行機が福岡空港へ向けて降下する直前には、
左の窓のすぐ眼下に積石塚を見おろすことができます。

福岡はビルが集中する都会ですけれど、海も日常。
「海」を知ると、もっともっと面白くなる街です。

 

海岸線の254基の積石塚。見学はここからスタート。ソウルの石村洞古墳群を思い出す姿です。あちらは高句麗の墓制ですが、ここは高句麗とは無関係とか。
最も大きな相島大塚(120号墳)

4世紀の終わりから6世紀にかけて造られ続けました。加耶系の初期須恵器が出ています。国指定史跡。
相島積石塚群の案内板

皆さんで見学中の古墳が、最大の相島大塚(120号墳)
人が立つと相島大塚の大きさがわかる

相島大塚(120号墳)の海側に回る。案内板が。
海岸線に連なる相島積石塚

相島大塚の案内板

 

登ってみると、前方後方墳に竪穴式石室が開口している。草が生き生きと伸びて写真は花壇のように見えてしまいますが。。天井石がなくなっているし盗掘もされていたが、須恵器が出ている。
相島大塚の竪穴式石室

海岸線に累々と続く
海岸の積石塚群

右手の岬の先が名勝・鼻栗瀬。この海底で平安時代に博多で焼かれた瓦が見つかり、水中考古学の調査が注目されている。都へ運ぶ船の転覆か?
鼻栗瀬。平安時代の瓦が海底から発見された場所

島内をぐるりと回りながら港へ戻る。途中、いろいろな時代の史跡が残る。
相島遠見番所跡の標識

港の近くに「朝鮮通信使客館跡」。300~500人の通信使一行へ、黒田藩のもてなしが、ここで盛大丁重になされていた。
相島の朝鮮通信使客館跡

朝鮮通信使客館図の案内板

朝鮮通信使客館跡の案内板

 

港の待合所には、島で一軒の「丸山食堂」
相島港の丸山食堂

海鮮ちゃんぽん、オススメです
相島名物の海鮮ちゃんぽん

港のすぐ横では、真珠の養殖が
相島の真珠養殖

ミキモトの加工場があり、今や年間10万粒の出荷
ミキモト博多真珠養殖

新宮港まで15分の船旅。気持ちいい!福岡タワーまで見えます
相島港から新宮港へ

あぁ~、青いなあ~!ずっと着かなければいいなあ。

こちらは宮地嶽神社の参道(福津市)。CMで全国に知られた「光の道」は夕陽がまっすぐにここへ。参道のまっすぐ先に浮かぶのが相島で、宮地嶽神社の巨石古墳の石材も関係がある。
宮地嶽神社参道から望む相島

「光の道」のポスター。相島に夕陽が沈み、参道に真っ赤な光が一直線に。
宮地嶽神社 光の道ポスター

 

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潮見展望台からみる海の中道の眺め
Japan

阿曇族の本拠地・志賀島。古代から続く志賀海神社は海と生きる人々の信仰篤き宮

海の青さと広さ。
ここが福岡市内、しかも福岡空港から車で30分の近さと聞くと、驚く方も多いです。

でもこれが福岡のそもそもの姿。
昔からずっと、海と生きた、海の民なのだと思っています。
万葉集でも海人や藻塩のことが詠われ、海とともに生きていた志賀島が二十首も登場します。

国宝・金印が出たことで有名なここ志賀島(しかのしま)は、古代の海の民「阿曇族」の本拠地。志賀海(しかうみ)神社への信仰篤く、わたつみの神と生きてきた地です。

世界遺産となったムナカタ族と同じで、志賀海神社も中津宮と沖津宮をあわせた3宮が島にあります。表・中・底の、わたつみ三神です。

今年、面白いプロジェクトが動いています。

1つは、九州大学ソーシャルアートラボとのコラボです。安曇族にちなんだ神楽歌 「阿知女作法」の沖津宮での奉納など。

もう1つは、京都観世会館でのお能です。桃山時代より謡い継がれる志賀海神社伝承の謡曲を、能の形として復曲、京都で初上演とのこと。

海の民「阿曇族」&能舞台。福岡市の横顔が芸術にいかに昇華するのか楽しみです!

ところで、
「阿曇族」をテーマとして毎年福岡で行われているシンポジウムがあります。
古代、阿曇族はここから全国各地へ散ってゆきました。海を経て川を遡り、その地へ根付きました。いま各地に「あずみ」の名が多く残っており、全国ネットワークも築かれています。長野県の「安曇野」は代表的なひとつで、毎年、志賀島と様々な連携企画を開催しておられます。日本の屋根、アルプス連山に抱かれた山の中で、海の神が祀られているという安曇野神社に、いつか足を運びたいと思っています。

 

志賀島の入り口にある志賀海(しかうみ)神社でまずはご参拝。古代からずっと宮司は阿曇家。海人の神、水と塩の神様。
志賀海神社の入口

 

志賀海神社の案内板

 

まずは御潮井(お清め砂)。左→右→左とかけて清めます。砂というのが福岡流。あの山笠も、祭りのスタートは浜でのお汐井とり(清めの神事)からです。
御潮井(志賀海神社の清め砂)

 

こんもりした山に抱かれた神社へ登ってゆきます。

 

 

 

ここまでの長い参道にも宝篋印塔(ほうきょういんとう)や歩射祭の場や万葉歌碑など見所たくさん。境内には文化財も多い。神事のひとつ「山誉め祭」は、山を誉め、大漁を祈る。山があるから海があるという感謝。智恵とはこういうことだろう。
志賀海神社の文化財案内板

楼門。鬱蒼と茂る木々と眼下の青い海。しかも、海の中道をはさんだ外海の玄界灘と波静かな博多湾。海と山、どちらとも守り守られの暮らし。
志賀海神社の楼門

志賀海神社の楼門

御祭神は表・中・底のわたつみ三神。海の民に篤く信仰されている。神功皇后伝説が多く残る地でもある。ここでは絵馬でなく「絵魚」で願かけを。
志賀海神社ご由緒

拝殿へ。
志賀海神社の拝殿

拝殿の前にも御潮井。
志賀海神社拝殿の前にも御潮井

はるか東を望む遥拝所。
遠く東を。遥拝所

神功皇后伝承が残る亀石。新羅遠征の折に阿曇磯良丸を通して安全を祈り、亀に助けられ無事に帰還したというお話。
亀石 遥拝所

国宝・金印の出土地。博多湾に面し、一直線の向こうには中国の洛陽、西安。江戸時代に地元の甚兵衛さんが見つけたという場所は、今は海の中。この横に、国宝・金印の実寸レプリカも展示されています。本物を観に、福岡市博物館へ、ぜひ。
志賀島金印公園

志賀島の最奥、勝馬の地に、中津宮・沖津宮があります。中津宮は7世紀後半の古墳の上。勝馬を率いた海人集団の首長墓と思われる。
志賀海神社の中津宮

古墳頂上の社の横には、ささやかな遥拝所。地元の方が綺麗に手入れしておられる。ここから、沖津宮を拝むのだろう。
志賀海神社中津宮に沖津宮遥拝所が

青い!透き通っている。中津宮から海側へ降りたら、こんな風景。ここはもう、玄界灘、外海である。右の小島が沖津宮。
浅瀬を渡り沖津宮へ

沖津宮へは、干潮になると道が通じて歩いて渡れる。麓に鳥居が小さく見えているのがわかりますか?
引き潮で道が現れる(志賀海神社沖津宮)

さらに視線を右(=東)へ移すと画面右1/3ぐらいに相島が見える。平たい台形の島。積石塚がある。この辺りまでが阿曇族、その向こうはムナカタ族。
志賀島から見える相島

浅瀬では海藻を採る方があちこちに。ポイントごとに採れる海藻が違うのだそう。
志賀島わかめ採り

志賀島のワカメは柔らかくて美味しいと、お土産にすると喜ばれます。
採ったばかりのわかめ

万葉集にも謡われた志賀の海人。海藻を刈ったり藻塩を焼いたりと忙しく、髪をすく櫛を手にすることもない、と。
志賀の海人 万葉集の碑

志賀島 万葉歌碑

 

阿曇族と古典芸能のコラボレーション。楽しみです。

潮見展望台から。海の中道の向こうに大都会福岡市のビル群や福岡タワー、大宰府へ続く水城まで見える。ここも福岡市です。

飛行機の窓から。福岡空港へ着陸前、海の中道を横切って降下中。海の中道に続く右奥が志賀島。
飛行機からみる志賀島

 

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瑞山三尊摩崖仏(百済の微笑み)
Korea

もうひとつの百済

「もうひとつの百済」。
来年の企画が1つできました。

百済へは何度も行きましたが、今回は全く違う視点から。
日本初、いやおそらく韓国でも初かもしれません。

百済は日本とゆかりが深く、武寧王や白村江の戦などはよくご存知でしょう。その百済の、三つの都や王宮ではなく、唐が攻めてくる戦の最前線の地をめぐります。

仁川空港に飛行機が降下を始めると、左側の眼下に複雑な海岸線やたくさんの島が広がります。忠清南道の最北エリア、公州から仁川に向かう途中のこの半島は、百済滅亡前の秘話や遺跡を多く残しています。

複雑な海岸線から上陸してくる場所。
海を経て唐(中国)と向きあった最前線だったから。

儒教や書の文化など、韓国らしい伝統文化が詰まった場所としても有名です。後年、「後百済」の復興運動の発火点にもなりました。

写真はそのエリアの「瑞山三尊磨崖仏」。
「百済の微笑み」とも呼ばれます。
百済後期の作で、韓国磨崖仏の傑作といわれます。

このエリア独特のお顔。こんなにも柔らかな表情の磨崖仏が集中しているのは、最前線の厳しさにいた人々の心が求めたものではないか。そんなことを想像しながら歩きます。

現地に立つのは、
年表の年号や遺跡の寸法を知るためではありません。
その時そこで生きた人たちを感じとるため。
そして、その地へのリスペクトを持ち帰るため。

 

「瑞山三尊磨崖仏」
600年頃、百済後期の作と推定。韓国の磨崖仏の傑作とされる
瑞山三尊摩崖仏全景(百済の微笑み)

大きさは人物と比べて下さい。こんなに間近で拝めます
瑞山三尊摩崖仏が刻まれた巨岩

頭光に3体の化仏、見えますか?
瑞山三尊摩崖仏(百済の微笑み)

山中の壮大な景色の中で微笑んでおられます
山々の中の瑞山三尊摩崖仏

周りはこんな感じ。階段を5分ほど登るとたどりつきます
摩崖仏の周囲の様子

現地へおでかけの折は時間にご注意を
瑞山三尊摩崖仏の案内板

 

地方ならではの素朴な食事は本当に楽しみ!おから料理は純豆腐料理に似ていて滑らかな冷たいスープ状。かなり気に入りました。出遅れた!ので我がテーブルはスタートしており、少し食べかけの写真で失礼します。
摩崖仏の近くでおから料理

麦ごはんと野菜が美味しい!
瑞山三尊摩崖仏のあと麦ごはんと野菜

韓国の食の基本「五味五色」はきちんと。
赤・緑・黄・白・黒
韓国料理の五味五色

 

 

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円山大飯店ロビー(台湾・台北)
Taiwan

台湾神宮にあった龍。なんと円山大飯店に

台北のランドマークでもある「円山大飯店」。
その山側エントランスのロビーに金の龍がいます。
金の龍はかつて、日本統治時代の台湾神宮に在りました。
あまり耳にすることのない話です。

高台でひときわ目を引く円山大飯店の赤い美しい姿は、ご覧になることが多いでしょう。剣鐸山の山裾、どこからも見え、どこまでも一望できるそこは、日本統治時代に台湾総鎮守の「台湾神宮」があった場所でもあるのです。

写真は現在の円山大飯店。
戦時下の供出や台湾神宮全焼の中で奇跡的に生き残った「銅龍」が、今は金を施された「金龍」となりホテル内に飾られています。

日本統治時代、台湾には184ヶ所の神社がありました。
(官幣社など国設置68ヶ所、社・祠など居留者設置116ヶ所)。
そして、日本敗戦後はすべて廃社されました。

台湾神宮の跡地には、まず台湾政府所管のホテルが建てられ、その後に経営権が円山大飯店に移り、今に至っています。

昭和天皇皇太子時代の台湾行啓の折には、大きくまっすぐな「勅使街道」が作られました。台湾神宮への参拝のためのその道は、町の中心部から高台へと続いていました。

今もその道が、台北中心部を南北に貫く大通り「中山北路」として、まっすぐにこの高台へ延びています。

ところで、

今の私の注目Best3は、
◎「中央研究院展示室」
◎「十三行遺跡」
◎「順益台灣原住民博物館」

本当に面白い。
国宝級遺物の数々。
鉄生産や海外交易でとても豊かだったのに、古代数世紀にわたりヒエラルキーを生まず平和に継続した集落遺跡。
観たこともない繊細で美しい土器や土偶など。

古代から近代、そして現在まで、
私たちと様々な関係を経てきた台湾。
近い台湾。もっと行ってもっと興味を持っていい。

円山大飯店ロビー(台湾・台北市)
国賓を迎える台湾の顔とも言えるホテル。
円山大飯店ロビーは赤が美しい(台湾・台北)

日本統治時代にこの山に存在した台湾神宮。跡地のホテルの中に、当時を生き抜いた銅龍が金を施された姿となり移設されています。山側客室棟のロビーにあります。金龍は台湾神宮にあった(円山大飯店・台北)

 

戦時下の供出や神社焼失の中を生き抜いた銅龍は、霊験あらたかと地元の人が大事に拝み続け、1987年に金が施され今の姿となりました。
台湾神宮にあった金龍(円山大飯店・台北)
金龍の説明(百年金龍紹介)

世界中からのゲストがここを歩く場面はニュース等でよく目にします
円山大飯店ロビー階段(台湾・台北)

豪華な内装にはドラゴンが多い
天井のドラゴン(円山大飯店)

遠方からも見える姿は台北のランドマーク
円山大飯店の外観

館内にはホテルの歴史の展示コーナーも。激動の歴史を語る何枚もの写真。その1枚目が「かつて台湾の神社だった」というこのパネル。蒋介石夫人の宋美齢女史が、かつて神社があった剣鐸山のこの地を気に入っていたとのこと。歴史に名を残す多くの人が写真に登場して息をのむ
台湾神社の写真パネル

台湾神宮の絵図
*絵図の写真はパブリックドメイン(public domain)
台湾神宮の絵図

 

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春川世宗ホテル(韓国・江原道)
Korea

韓国に神社の石段が残っていた


韓国を歩くと、知らなかったことに遭遇し驚くことばかりです。

歴史ツアーで宿泊したホテルの石段が、日本統治時代の神社の、数少ない痕跡だったとは!

敗戦の日の翌日、1945年8月16日、
京城(現ソウル)にあった朝鮮の総鎮守「朝鮮神宮」は日本人の手で昇神式にて御祭神は奉還されました。そして後日、すべて燃やして廃社されました。

今は何の痕跡も残っていません。
場所は明洞、今の南山公園。
ソウルタワーやケーブルカーでにぎわう観光スポットです。

日本が統治していた当時の朝鮮には官幣社や国弊社などが82ヶ所、居留者が設置した社・神祠を加えると全部で995ヶ所の神社がありました。

その神社の、数少ない痕跡のひとつが、
江原道春川の旧江原神社の跡。
石段が、現在の世宗ホテルの正面階段として残っています。
とは言え、石段を「モノ」として活用しているだけで、
宗教的な痕跡はまったくありません。

かたらんねツアーでは過去に2度、それとは知らず泊まっています。
世宗ホテルは、春川の中心部を少し外れた高台の、決して便利ではないけれど眺めのいい場所にあります。江原神社の話を知っていれば違う見方、感じ方があったかもしれません。

明日は台北の台湾神宮のお話を。
あっと驚くような場所に、今も痕跡を残しています。

*数字は下記から引用させて頂きました
中島三千男氏『海外神社跡地の景観変容 さまざまな現在』
川瀬貴也氏 京都大学人文学研究所『人文学報』108号

 

春川世宗ホテル(韓国・江原道春川)
春川世宗ホテル(韓国・江原道)

市内中心部はずれの高台にあり静かな環境
春川世宗ホテルは街を見渡せる高台(韓国・江原道)

正面の階段は日本が占領していた時代の旧・江原神社の痕跡
正面階段は日本統治時代の神社の痕跡(春川世宗ホテル)

政財界の方々も集うホテル
格式ある春川世宗ホテルは政財界人が集う

韓国の歴代大統領もここへ
韓国の歴代大統領もここへ(春川世宗ホテル)

「京城名所 朝鮮神宮」とある。これは占領期の絵はがき。
現在のソウル中心部、明洞にあった。
*絵はがきの写真はパブリックドメイン(public domain)
「京城名所 朝鮮神宮」絵ハガキ

春川の町を望む。澄み切った青空、からりとさわやかな空気、美しい街。国立春川博物館の高台より
国立春川博物館から街を一望

春川と言えば、「冬のソナタ」のヨン様。雪のオブジェがあふれる冬ソナストリートもあるけれど・・・
春川の「冬のソナタ」通りには2人の手形

片手にマグライト、片手に方位磁石で、
芳洞里高句麗遺跡の石室

高句麗遺跡を訪ねる我々のような人々もいますよ。
芳洞里高句麗遺跡の案内板

 

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福岡タワーと秋の空
Japan 雑記

お盆も送り火。空は秋の気配

 

送り火。
お盆も終わり。

空はもう秋の気配。

来年4月からの企画を創り始める季節。
皆さまの、
「面白かった~」の声とはつらつとした笑顔を栄養に、生きています!

 

福岡タワーと秋の空(福岡市総合図書館の前から)

正面からの福岡タワー

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Japan 雑記

お盆です。夏と言えば… 石垣のしめった匂いと線香の薫り

2018年08月13日

「夏と言えば?」。

先日、ふいに投げられたお題に、
「知覧の石垣のしめった匂い」と自然に湧いてきた。

早朝のひんやりと湿った空気。
お盆の線香の匂い。

いなかには帰れないけれど、
空のあちらから戻ってきている曾祖父も祖母も叔母も、
今日はみんな一緒にいる気がします。

提灯とお仏壇で大切な方をお迎えする、あったかい日。
もう、こんな日も贅沢なことになってしまった。

写真は、八女の職人の現場で見せていただいた技。

【写真は、彫り師、提灯の生地師、和紙職人のお仕事です】

 

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満開の桜 一酌散千愁
雑記

一酌散千愁

見事な満開の桜が街を覆った数日後、
花吹雪の中を、大好きな先輩が逝ってしまった。

病気だなんて知らなかった。
いつだってあの笑顔に会えるなど、
なんの約束でもない思い込みなのだと、
当たり前のことに呆然とする。

葬送の式で伺ったお話に、
改めて先輩に会えたような気がしている。

 

「願わくは花の下にて春死なむ
その如月の望月の頃」

自宅を建てたときに庭に桜の木を植えた。
桜を植えたかった先輩は、
庭に桜なんてあまり植えないんだけどね、
といいながら西行法師のこの歌を口にしたそうだ。

そして本当に如月望月の2日後、桜の下で旅立った。

 

はっと思い出したことがある。

「一酌散千愁」

酒蔵開きにおじゃましたときのことだ。
飲み比べを楽しんでいる私たちに、
これ飲んでみて、と注いでくれたお酒。
「わあ、美味しい~!」

嬉しそうに満面の笑みを返す先輩に
「これはどのお酒ですか?」と尋ねると、
ひと言ずつゆっくりと、
「いち しゃく さん せん しゅう」。

「い… しゅう… え?」
わからないと顔に書いてあるのを笑いながら、
「杜甫の詩の一節でね、漢字でこう書くの。
一、酌、散、千、愁。
お酒を酌み交わせばいやなことも全部きえていく、
っていう意味なんだ。」

「僕はね、杜甫が大好きでね。
この古酒は、杜甫の詩から名前をいただいたの」

素敵なネーミングだなあ、
春のうららかな田園風景の中で酌み交わすなんて、
先輩らしいなあ、と、
教養人の先輩をさらにまぶしく見上げたものだ。

 

でも、そのことは記憶の奥にしまったままだった。
お別れの式で、皆さんが語る想い出から、
文化や伝統を体現する酒蔵として、
心を砕き汗をかき、
さまざまな行動をしていらしたと、
初めて知ることが多かった。

たくさんの点が、つながった気がする。

やさしいやさしい方だった。
笑顔しか見たことないと誰もが言っていた。
いつも、柔らかな笑顔で、
いつも、ゆったりした語り口で、
いつも、大丈夫大丈夫と肩をたたいてくれた。

その裏で
強靭な精神が支えていたのですね。

長い闘病を人に知らせなかったこと、
まったく入院せずに通院でたたかい続けたこと、
通院しながら仕事も休まなかったこと、
必ず治ると信じていたこと、
激痛にも弱音をはかなかったこと。

何がその強さを支えていたのだろう。

お酒をのみながら幸せな時間を過ごしてほしい、
満開の花の中で、
のどかな田園で、
うれしいとき、つらいとき、かなしいとき。

お酒とともに、
大丈夫だよという笑顔とともに、
私たちを励ましてくれていた。

文化や伝統行事を、
一所懸命に伝えようとしたのも、
きっと、それが私たちを支えると信じていたから。
そしてそのことが、
ご自身をも支えていたのだろうか。

 

やさしいだけでは
やさしくなれないのかもしれない。

強くなければ。
志がなければ。
行動がなければ。

お別れの式は、
旅立つ前に大事なことを教えようとしてくれた、
そんな時間だったように思われてならない。

 

花を手向けたそのお顔は、
微笑んでいるようにみえた。
死後にお顔がふっくらしてきたせい?
いえ、そんなことなど超越して、
「先輩、最後まで笑ってたよね」、
「笑ってさよならしていたね」、
と私たちに言わせてくれる、
その生き方に心からの敬意を表します。

いや、先輩は、
きっと本当に笑ってたんだ。
もうすぐあちらの世界で、
桜の下でお酒を酌んで、
千の愁いを散らすんだ。

合掌

 

 

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