葬られた主が女性首長であること。
34㎏もの朱が使われていたこと。
なんと言ってもこの2点で忘れられなくなる古墳です。
全長90m、後円部45mと、大分県3番目の規模の前方後円墳です。
石棺や石室に朱で文様が描かれていただけでも、「すごいすごい」と古墳して見学しますのに、「34㎏の朱」とは一体どんな様子なのでしょう?説明によれば「バケツで汲むほど」と表現をされまして、発見時はさぞや注目を浴びたことと想像します。
最高位の贅沢葬です。
先に紹介した亀塚古墳とこの築山古墳はすぐ近くで、丹生(にう)川が別府湾にそそぐ高台にあります。「丹」が「生」まれる、という気になる名前。
そういえば、と連想したのが、国東半島の北にある宇佐神宮です。宇佐神宮は、奈良東大寺の大仏建立に大量の銅を送り支援しています。(田川の採銅所という地名の聖なる場所で銅を産出して、‥…という面白いテーマはまた改めて)
銅を奈良に送ったように、「あをによし=青丹よし」と詠われた(諸説ありますが)、青と赤で彩られた都の美しさは、この地域から「丹(に)」も送られて活躍したのか?、などと想像がひろがります。
この古墳の後円部には、亀塚古墳と同じく地元産の緑泥片岩の板を組み合わせた箱型石棺が2基。南石棺に3体、北石棺に1体が葬られており、南棺の中央、一番古い人骨が「海部の女王」とのこと。
ここで、豊後国風土記の「土蜘蛛」が気になります。中央の圧力に抵抗した、各地の在地首長が「土蜘蛛」として登場しますが、豊後国風土記にはそれが際立って多いのです。景行天皇が土蜘蛛たちを打ち負かしてゆく様と、現在、それと重なる場所に地形や地名や伝承が、とても興味深く、現地を見る目が変わります。(珍しく?、古事記と日本書紀でほぼ同じ内容)。
この物語の中で、女性首長と思われる人物がたくさん出てきます。当時はシャーマン的な首長が多かったとは言え、豊後は肥前国風土記と並び、突出して多い地域。出土品からもそれが伺えます。
ここ海部にも、海に潜り、海を渡り、活躍した女王がいた。
目の前の青くきらきら光る海と暮らしていたのです。
この古墳の発見は、神社の植樹の時に、氏子さんたちが鍬を入れて石棺を見つけたのがきっかけです。今も古墳は神社と一体で、石棺発見後は地元で「石棺さま」と信仰を集め、「石棺溝」が結ばれたり、毎年「石棺さま祭り」が行われたりしています。
石棺さまの覆い屋はきれいに掃除され、花が活けられています。
地元の方による案内板には「私たちの祖先が海と生きてきた」ことが書かれ、「私たちの父でもあり母でもある、神崎の海山を守りましょう」とありました。
出土品などは亀塚古墳公園内の資料館にて。
「亀塚古墳・海部古墳資料館」
http://www.city.oita.oita.jp/…/b…/rekishi/1014947779619.html
古墳のある神崎八幡神社は、海人らしく、波頭が勇壮に。
大分市の地図。別府湾を望む高台に県下最大の亀塚古墳、少し東に県下3番目の大きさの築山古墳。豊後水道は庭のようなもの。
亀塚から岬へ向けて海沿いを少し走ると築山古墳。目の前は別府湾、正面は四国が見えそう。
神社の鳥居の左手奥のこんもりした小山が築山古墳
海がまばゆい道から一歩入ると、鬱蒼とした古い森に囲まれ神社があり、裏手に築山古墳
神崎八幡神社。地元の方に大切に整えられている。
まずはご参拝を
地続きの右手の小山が築山古墳
境内に面して案内板も。ここから登っていく。
築山古墳の後円部、46m
後円部からみた前方部。全長90m。
境内にはパンフレットが貼られている。
後円部の頂上には、石棺を埋め戻して覆い屋を建てた。
南棺と北棺の覆い屋が隣接。
覆い屋周辺も地元の方に綺麗に掃除されている。
「石棺さま」。内部には埋め戻された石棺
人骨が3体。中央の女性が海部の女王。昭和8年の図面
覆い屋にかけられた案内板。地域の方が祖先として大切にされているのが伝わる。
毎年10月には「石棺さま祭り」
神社の屋根瓦が独特の雰囲気です
波頭。海人の氏神様らしい装い。小さな神社なのに勇壮な趣。
ここからは、
海部古墳資料館の展示パネルより